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公平に平等に社会貢献してきた人には最後の結論が理解できる

医師や看護職というのは、人の命を守るために多くの時間を費やし専門的な知識と技術を学び、臨床の現場に出てからも自己研磨を続け、患者様と直接関わる時間が長いため人の体や心を理解し一人一人を支えるための努力をする日々ですよね。

そして、全ての患者様に対し、平等に公平に医療を提供し、客観的情報をもとに、一人の人をあらゆる側面から捉えて、その時その場でその人にとって最善を尽くしています。

そのような多忙の日々を送り労を費やす皆様には、心から感謝と尊敬を申し上げます。

ベテランの医師や看護職の方には、視座を高く視野を広く持ち、自分自身の感情や状況を俯瞰するメタ認知能力が高く、人を客観的に観ることができ他者を理解し共感できる人が多いと思います。

どのような人の社会的背景も人間性も読み取りながらあらゆることを理解し、その人に必要なことを提供していくのが役割です。

だからこそ、どのような患者さんに対しても同じように対応することができ、その人ぞれぞれの特徴を見抜いてその人に合ったことをすぐに手を差し伸べられるのも、この職業の方々の素晴らしい特性です。

緊急対応や出産、急激な病状変化などは避けられるものではなく、自分の担当患者さんであればいくら休暇やディナーを楽しんでいたとしても休みを返上して現場に向かうのが当然の如く医療に貢献し続けてきたのではないかと思います。

そうして生きてきた人には、私たち人間の本質は意識であり、その意識が普遍的であり捉えられるものではなく対象物を捉える対象物ではない主体であり、あらゆる客体を捉えている事実に気づいている方も多いのではないでしょうか。

臨床の現場で身体や精神の病を患う人たちは、その病気に直面して恐れや不安、痛みや苦しみと闘う日々の中で、様々な感情を抱きます。

やり場のない苦しみが怒りとなり悲しみとなり、どこに吐き出して良いのかわからず家族にも言えない心の悩みをぶつけたり打ち明けられるのは、一番長く寄り添う看護職がその役割を担うことも多いですが、実際の現場では業務に追われて十分に本来の役割を担うことができずにジレンマを抱く人も多いのではないでしょうか。

また、どれだけ倫理的に人のために自分の体や知性をフルに使って医療に貢献し続けていても、名誉や功績を残して称賛されたとしても、大切な家族を得て物質的に豊かになったとしても、それでも何か満たされない感覚や、どこかに解決を求める気持ちが残る人も多いのではないかと思います。

どれだけ社会に貢献して充実した人生を送っていたとしても、どこかで行き詰まる時がきます。

誰にでも訪れる人生の転機があります。

今まで知り得てきた情報だけでは、どこにも解決がないことに気がつくのです。

私たち人間が最後に知るべきことがあります。

それを理解するためには、あらゆることに対して自分の偏見を取り払い、公平に物事を捉えて社会に貢献することが必要ですが、そうしてきた人にとっては、何を得てもどこかに満たされない感覚が残るのは、人が追い求める最後の結論を知らないからなのです。

もちろん、目の前のことに没頭して一生懸命生きているときには、熱心に生きることで充実感はありますので、その時はそれで十分な時もあります。

医療現場で仕事をしていれば当然ながら、人の命を守り健康に導き、人間の尊厳であるすべての人が幸せになる権利を支えるのが役割です。

しかし、どれだけ善を尽くしても人の命は儚いものです。

もちろん、その人それぞれの生きてきた人生があり、社会的背景があり、命が尽きる理由もわかることが多いので、家族にも理解をしてもらえるよう悲しみを支えるのも役割の一つです。

また、生まれてきたばかりの赤ちゃんがすぐに命を落とすことも、産んだばかりのお母さんが命を落とすこともあります。

患者さんの家族にとっては失意のどん底に突き落とされた気持ちで、やり場のない悲しみと苦しみが怒りになり、その思いは計り知れません。

その現場に立ち会う私たちも、どれだけその経験したとしても、悲しみと自責の念を抱き動揺する気持ちは何度でも持ちます。

それでも、その人たちを支える立場として毅然に振る舞わなければなりません。

そうして人の命が生まれて、育ち、老いていつかは亡くなっていく。

当たり前のライフサイクルですが、そこに疑問を持つのです。

元々人間や命に興味があってこの職業を選び貢献してきた人も多いと思いますが、知れば知るほど、人はなぜ生まれてくるのだろう。なぜ死ぬのだろう。その後はどうなるのだろう。

という疑問に対する答えは見つからないのです。

私たちが最後に知らなければならない真実は、長年多くの人々を平等に見続け、人間というのをあらゆる角度から観てきた人には理解できることです。

肉体や感覚器官や生理機能や心理については、十分すぎるほど学びますが、それでも、学んでも学んでもキリがないほど多くの情報をもとに分析し、エビデンスだけでは成立しないことばかりで、運や天に任せることも多くあります。

そうして人間というものを多くの情報で分析して解明しようと努力してきた人にとっては、その科学的根拠になる情報が意外と乏しいことに気づき、それだけではどうやっても解明できないことばかりで、それをまた研究して明らかにする日々を送っている人も多いと思います。

確かにそれも大切なことですし、とても役に立っています。その新たに明かされた情報をもとに、私たちは一人一人にとって最善の方法を選び提供し、その結果を見ては修正を繰り返し、その都度最善を検討し提供します。

しかし、物事には一定の法則がありますが、絶対的な因果はないことにも気づく人も多いと思います。

そして、あらゆる物事は全てが移り変わり、どれだけ長い期間維持されてきたものであったとしても、この世界にあるものは何もかもがいずれは朽ち果て色褪せ消え去り、変化していくものばかりです。

その移り変わりを捉えている自分自身は、全く移り変わりのない存在であり、その本質は穏やかな純粋な愛そのもので喜びと満足を伴う、限りのない幸せな存在であるという、その真実を知ることなのです。

それが本当の自分自身です。

そこには、私たちの知らないエリアがあり、全ての原因になる源があり、日常的に現れている物質も出来事も状況も記憶も新しい体験も、全ての顕在化された物事の背景に隠されていること、そういったことを神と呼んでいたりするのですが、そのエリアは実は自分自身の中にあるのです。意識である移り変わりのない、時間にも束縛されない空間を超えた自分自身という存在は、肉体や考えを超えており、生まれることも死ぬこともありません。

その意識が、移り変わる物事も、過去も現在も未来も含む時間も空間も捉えているのです。

そして、私たちが日々している行いの結果が、この一瞬一瞬を成り立たせ、生まれることも生きることも死後も含めて人生を紡いでいるのです。

その真実を知らないが故に、私たちは満足や幸せを追い求めて、命が尽きてもまた満たされようとして生まれてくるのです。

その真実を理解するまでは、その生まれ変わりは続きます。

もちろん、次に生まれ変わったらああなりたい、これになりたいという願望があるのなら、また生まれてきますから安心して下さい。

しかし、本当の意味で自分自身が満足な存在だということを知り理解したのなら、それ以上に何かを得る必要はあるでしょうか。

実際、必要な物事は全てが手に入っています。

この体を安全に置く場所もあり、健康に保つための食事が摂れ、社会に貢献するための仕事を持ち、経済的にも不足はなく、支え合える家族や仲間などがいて、知らない人でさえ支え合っていることも知り、それなりに社会的地位や名誉もあり能力もある。

それに必要な物事は、また手に入れることができる。

どこを切り取ってみても、どこか不十分なことはあるのでしょうか。

個人一人を取ってみたら、もちろん能力に欠ける部分や不足はありますが、社会で十分に貢献して生きてきている人は、そういった個人の不足を自然に受け入れ補い合う関係性を保ち、医療現場も家庭もチームプレイが成り立っています。

個人と個人との関係性は、お互いに足りないところを補い支え合う形で丁度良く一つの形になっていきます。まるで、パズルのピースのように、全部が合わさって一つの大きな絵が完成するように。さらに大きく捉えれば、この世界の生きとし生けるもの全てがたった一つで支え合っているのです。

生態系や気象を考えれば、個人の考えられる範囲を超えることがほとんどですが、命を守り自然の摂理に従って生きてくれば当たり前の理解になると思います。

そうして生きてきた人には、最後の結論として、その捉えられるものも捉えられないものも全て含んで自分自身なのだということは、日常の体験としても理解できることも多いと思います。

意識である自分自身が、遍く満ちていて、既知のエリアも未知のエリアも捉えられていること。

それについて正確に理解する必要があるので、私たち人間は最後に追い求める人生のゴール、自分自身についての結論を正しく学ぶことで、今まで外側に追い求めていた安全や喜び、満足が、自分自身の意味であることを理解するのです。

それを学ぶためには、一定期間ヴェーダーンタという普遍の真実について学ぶことが必要です。

普遍の真実がかなり変化した解釈で広まっているものが多く、一般的に私たちが手に入れられる情報の多くは間違った解釈ばかりですが、普遍ですので変わることのないものが真実です。その見極めも、社会で十分に活躍してきている人でしたら可能たど思います。矛盾のないこの教えに耳を傾けられることを願っています。

実際に体験として、日常的にもそこまで迷うこともなく、恐れや不安に苛まれることも少ないのが医師や看護職です。よく心臓に毛が生えていると言われることもありますが、人の命の現場にいて、それを守らなければならないその瞬間に全集中力を費やし行動をしている人にとっては、迷いも動揺も一瞬でなければ、その瞬間に病状は悪化し判断が遅くなれば守れる命も守ることはできません。
その知識が目眩くあらわれ展開し消えていくのかを考えると、自分自身から現れて消えていくことも理解できますし、これまでの学びを得る行いの結果として、今を作り、その判断力も行動も現れては消えて移り変わっていきます。

自分の体と考えを最大の道具として使い、知識と技術を日々磨き続け、尊敬する皆様には、自分自身の最後の結論を理解し、本当の満足と幸せに生き、残りの人生を有意義に使って欲しいと心から願っております。

そのような、人を様々な角度から客観的に捉え、一人一人を支える医療を担う人が、人間が生きる目的と生き方についてを正しく知り、最終的にどうなるのかを理解して導くことが、今の日本では必要なことなのではないかと考えています。

大学のカリキュラムの中には、心理学や哲学が含まれていますが、間違った解釈をいくら学んでも結論は理解できるものではありません。

医学部や看護学部のカリキュラムの中に、人間の生きる意味や結論が正しく学べる機会が盛り込まれると良いなと思います。

また、医療現場でも人の命を守り、生きることを支える人たちが、正しく人間を理解する機会に恵まれることを願っております。

保健室オンラインでは、医療従事者のためのメンタルヘルスケア、心理療法・コーチングも行っております。

hokensituonline@gmail.com

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