みんなが自分らしく自由に自分を出せるようになったら良いなと思って書いています。
みんながみんな、全ての人はそのままで完璧なのだから、認めたら良いだけというシンプルなヨーガの生き方ができれば良いのですが、それぞれの育った環境から観る世界を創り出しているので仕方ありません。
スワミジがよく例え話で、ずっと女の子ばかり生まれて、男の子が生まれることに期待していたことに反して、親が、また女の子か…と言われて育った人が、大きくなって会社に勤めても転々と辞めてしまう。その理由は会社の上司が、女の子だから早く帰りなさい、と言った言葉に対して怒りを持ち、バカにされたと思ってゴミ箱を蹴りつけて会社を辞めるという人の話をされますが、それも上司は優しさや思いやりの気持ちで言ったであろう言葉に、勝手に自分の育ってきた環境によって自分自身が植え付けた偏見を相手に見てしまうのです。
私は、このブログを読んで意識がかまらヨガに絶対に行こう!と向いて下さるパレートの法則でいう2割の方々に発信しています。だから、お客様の満足度が非常に高いのです。
特別なことは何もしていません。
本気で心から信じている本質の世界、この世の中で一番大切なことを学ぶことが大好きで、それを知って欲しいから伝えたい!という情熱を持っているだけです。
私のブログを読んで「フワフワしていて何を書いているかわからない」という人、「傲慢だ、高圧的な態度をやめた方がいい」という人、「偽善者みたいだからそういうこと言わない方がいい」という人、「悟ったようなこと書いている」という人などなど…、皆、自分の見える世界の中で良しとする方向へ抑え込みコントロールしようとしたり、凄い人に創り上げてしまいます。
それを全部まともに聞いて受け止めていたら、なんだか凄い悪の塊みたいな人ですね。
そういう風に作り上げてしまう、そちら側の人も2割はいるということです。
いかようにも見えるということです。
フラットな気持ちでこのブログを書いていても、面白がっているとか、怒りを抱いているとか、どのようにも見えるものです。
ブログを見る人たちに私と同じものがあれば、私の考えや性質が見えますが、多くは自分の世界を基準にして人に自分を見たり、過去の体験から来るものの見方によって、自分のフィルターを通して人を見ています。
なので、どれだけの愛や社会貢献であっても、そういう思いや行動に出たことがない人にとっては、偽善者に見えるだけですし、ヨーガの教えを学び続け、人に伝えていると、上からものを言っているように感じられる人もいるのです。
私は大好き過ぎて、人生そのものをかけて生きていますが、わかっていてもやはり人間ですから批判や否定されたら嫌な気持ちになります。それが人間らしさの現れですから。
心を鋼鉄のようにして何も感じないようにして生きるのではなく、人間らしさを感じながら、自分自身を見つめる機会にするのです。
カルマヨーガサンニャーシーというスタイルをとってヴェーダンタを毎日勉強し続ける人は、日本でいうと在家修行僧のようなものです。
社会での役割を遂行しつつ、ヨーガ修行を行う生き方をする人。
聖典をひたすら学び、日常そのものをヨーガとして生活し、自分の見方や考え方をその道に修正して行く生き方をしている人ですので、悟ることを学び自分の知識としていこうと努力しているので、偽善者でも悟ったような人でもなんでもなく、カルマヨーガサンニャーサー以外の何物でもない訳です。
真理が自分の知識になり、自分の行動をあらゆる人々の幸福につながることへと意識を向けて生きられる人。
そうなりたくて生きている人です。
ヨーガの教えは、あなたこそが素晴らしい存在であり、全ての人もありとあらゆるものもあなた自身なのだということを、たくさんの技法を使って教えてくれています。
だからそれを学び、信じて伝えていると、悟りの内容になるのは当然のことです。
自分より高い周波数帯の意識は見えないので、高いところから見下されるような感覚になったり、言っていることが聞こえなかったり存在が不明確になります。慈悲や慈愛、平等や思いやりという意識の世界は見えません。
これも、チャクラの講座を聞いて頂ければ、意味は理解できると思いますが、それも私であり、全てはたった一つのものでしかないのです。
医学が全くわからず興味のない人に医学の専門的な話をし続けても、頭痛くなるか眠くなるだけです。
内容は全く伝わりませんので、雲の上の話しにしか聞こえません。
物理が苦手なら、いくら事実を話したところで、興味がないから理解しようとしないので、それもまた雲の上の話しです。
そういうことを言っている人が悪いとかダメとか、良い悪いとかそういうことではなく、ヨーガで言う無知、仏教で言う無明の闇が邪魔をしているわけですから、それに灯りを照らすことができれば、真実が見えてくることであって、皆同じです。
私も最初は、スワミジが人を小さく見るとか、分からないでしょうという前提で話をするのに対し、なぜバカにするのだろう、みんなわかる人若しくは分かろうとする人が聞いているのに…などと思いました。自分を小さく見る人が、これを学ばないだろうと思っていましたし、話す例え話がネガティブすぎる話しなどで、全然自分に置き換えることができないし、なんて変な話しばかりするのだろうと、嫌な気分にまでなり、この人から学ぶのをやめようかなとも思いました。
こういう話をするときに、どうしてもネガティブな感情や考え方を先において観ていくことが必要なので、それを話している人がとてもネガティブに見えてしまうのです。
私も、そういう考えしてたら、生きづらくないですか?と言われたこともあります。
生きやすく幸せななるためのものの見方や考え方をお伝えしているのですが、そっち側を見てしまう人もいるのですね。
医療や福祉の現場にいると、一般的には想像すらできないような人々に遭遇します。現場だけではなく、すごい人はたくさんいますけどね。
私の前に現れる人たちは、本当に様々な人がいます。尊敬する師や仲間たちはもちろん、苦しんでいる人もたくさんいます。
でも、どうすれば良いかを知れば、光が差してくることを伝えたいのです。
私たち人間は、全ての人が元々素晴らしい存在であり、永遠の幸せの中に生きている絶対に変わらない人。
だけど消えては過ぎ去り、移ろいゆく変わりゆくものに欲望を見出しては感情が揺れ動くのだということを、あれこれとたくさんのことから教えてくれています。
最終的にはそれを知り理解して、目に見えている全ては無常の世界であり、真実は常に至福に溢れていることに気付けば、常の世界から見た無常を楽しむことができるのが、生きながらにして悟った人です。
今世では無理でも、いつかそうなることが生きている最終目標です。
ですから、そこに向かえる生き方をすること、それを学ぶことはこの上ない幸せなことなのです。
それを批判する人に目を向けて生きるのか、それとも幸せに気付ける生き方をする人に意識を向けるのか、生きる喜びが全く変わってきます。
批判する人たちにばかり意識を向けていては、自由に幸せに生きてはいけません。
だからと言って見たくないものを見ないとか、嫌な人とは付き合わないとか、臭い物に蓋をするということではありません。
真実を理解すれば、嫌悪とかネガティブな感情に振り回されなくなるということです。
私は好きにブログを書いていますが、それでもわかる人しかかまらヨガリトリートに来ないという、ある意味完璧なツールになっています。
好きなことを発信すれば、好きな人だけが集まる。
だから自由に、自分が一番喜ぶことが社会貢献につながり、お客様からもたくさんの幸せを頂き、共に楽しく嬉しく幸せでいられる。
世の中には同じことが起こっているのに、同時に幸せでいられる人と不幸せを感じる人が、今この瞬間にも同じ場所に存在します。
何をどう見るのか、どう感じるのかはそれぞれの自由です。
でも、多くの人が幸せになりたいと、外側にばかり意識を向けては苦しみ、本当の自分に気付かずに生きているのではないでしょうか。
その4に続きます