人は、この人なら安心とか頼れる存在には兎角認めてもらいたいし褒めてもらいたい。
ありのままの自分を受け入れてくれると信じている。だからこそ、ダメなところもおかしなところもまるごと認めて受け入れて欲くてさらけ出す。
でも、そのはずの存在である親や家族、恋人や先生などから否定されて制圧されれば、認めてもらいたいが故にコントロールされようとします。言うことを聞いたら褒められるから、また支配されていきます。
そして自分らしく生きることがわからなくなってしまい、否定や批判の中に身を置くようになります。
ああした方がいいよ、こうした方がいいよ、と色々忠告してくるのも、親切心のこともありますが、多くの場合は否定です。
そうやって自分の思うように支配しようとコントロールしてくるのです。
それが心地良いことなら従ったら良いけど、無理してその人の思う通りにならなくても良いのです。
自分の感覚、思い、心に正直に生きるだけです。
そして、誰かに何かを言われることを恐れたり、自分に自信が持てないあまりに行動に移せず、自分で自由を奪って、型にはまった生き方をしなければならないと、抑圧されて生きている人も多くいます。
誰かによく見られるために生きて、自分らしさを失って苦しくなっていませんか?
人はこうでなくてはいけない、ああしなくてはいけないという呪縛に捉われてはいませんか?
嫌な出来事が降りかかってくることに、恐れを抱いていませんか?
それは、自分自身の好きとか嫌いが自分を縛っているのです。
他の誰でもありません。自分自身なのです。
それを冷静に観て冷静に観察すること、自分の嫌いが出てきていること、自分の好きが出てきていること、それを観ることができれば、いつでもそれに振り回されることがなくなります。
客観的に眺めて、人に棘を出すのではなく、自分てこういうところあるんだなぁ~と、自分自身の性質を知ることに意識を向けてください。
何か怒りや気に入らないことが起こった時には、自分の解決できていない問題をここに観ているだけなのです。
個の人間ですから、全てを完璧に受け入れていつでも心優しく、誰からも好まれる人ではいられません。
起こることの全てを、あるがままに観るだけです。
目の前にいる人も人間ですから、たくさんの感情が湧いてきます。
怒りをあらわにすることもあるでしょう。
人間らしさの表れだということを認めて、相手が怒りや不満を表出していることは、らしさですからただ観るだけです。
一つ一つそれに腹を立てたり嫌悪を抱いて自分の気持ちを害しても仕方のないことですし、それそのものも自分自身の未解決な過去の表れです。
そうしてたくさんの重ね合わせをそれぞれが見ているのです。
私たちは本質の中に生きる幸せを知った時、自分の心や身体の穏やかさや平安を乱す行為はしなくなります。
例えそれが自分にとって好ましいものでも好ましくないことであっても、ヨーギーはどちらも神から与えられた宝物だとして観るからです。
ただ、基本的な生き方として、俗世界にあるもののほとんどは、満たされない自分を埋めるために外側から取って付けるものです。
真の自己が満たされていれば、必要としないことが多いのです。
でも、またそこに、ヨーギーはこうあるべきだ、とか、こうでなくてはいけない、という呪縛の中に身をおいては、元も子もありません。
できないうちは、自由に好きに生きたら良いのです。
ヨーガの生き方であるヴェーダンタを学び続ける人でも、すぐに怒りが湧いては、それを露わにする人もいます。人間ですから。
ヨーギーは怒ってはいけないと思う人が多いけど、怒りも人間に与えられた感情という機能の一つであって、人間らしさを現す道具なのですね。
だから、誰かが怒りを表していても、嫌悪を抱く以前に、人間らしさを表しているのだという認識で見守る気持ちが大切です。
ヨーギーは、常に穏やかでなくてはいけない、怒りを覚えてはならない、全ての人にとって良い行いをするのが当たり前だ。
と、また小さな枠の中に身を押し込んでしまうヨガ実践者も多いのではないでしょうか。
自由で良いのですよ。
心から楽しいと喜びを感じてそれを実践できるのなら、それはそれは素晴らしいことです。
無理したり抑圧してそうするのではないということです。
自分の楽しいこと、喜ぶことを好きに自由に行動して良いのです。
だからと言って、人の嫌がることや迷惑をかけて自由に好きなことをして良いということではありません。
そこにはたった一つの法則があります。
それを知れば、輝かしく自分を生かして歩むことができるから。
その法則に沿って生きるようになれば、あなたがしたいこととしなければならないことが同じになるのです。
無理しているときは、したいこととしなければならないことが一致しないかもしれませんが、本当の自分のやりたいことをやってみたら良いのです。
本当にやりたいことをやれれば、喜びに溢れて生きていくことができます。
喜んでいるあなたが、必ず人を喜ばせることができるのです。
そして何かに迷った時や、これを発して良いのかと悩んだ時、それは物事や言葉でも同じですが、何を基準に選ぶのかが大切です。
自分の欲を満たすためなのか、誰かからの評価を上げるためなのか、それとも、誰かを幸せにするためなのか…。
絶対的な答えは、誰の幸せにつながるかです。
一生懸命、自然の法則や宇宙の原理原則に従って生きている人々のためはもちろん、何かに苦しんでいる人たちや、目の前にあることに気づかずに探している人たちが、本来あるべき姿に落ち着いて幸せでいられることのためにつながること。
それを基準に物事を選んでください。そのために自分自身も幸せになれることを選んでくださいね。
こんなに大切なことを、何も言わずに黙って見えてはいられません。
どこに向かって歩いて行けば良いのか見えずに不安を抱く人、迷っている人、人生に起こる苦しみや悲しみの理由を知りたい人、そこから脱したい人、幸せなはずなのになんだか満たされない感覚がある人、誰かと比べては自分に自信が持てない人、人からどう見られるかばかり気にして生きている人、誰かに嫌われることを恐れて自由に生きられない人、人の態度が気に入らなくて制圧する人、思い通りにいかないことばかりで人生が辛い人、先の不安ばかりに目が行く人、もっと幸せになりたい人、真実を知りたい人…
そういう人たちの歩く道に灯りを照らすために伝えて生きます。
多くの人が、自分の好きと嫌いで物事を見て判断し、選択して欲望を満たそうとします。
あれを得たら満たされると思って手に入れようとしたり、これになれば幸せになると思って懸命に努力して生きている。
意識を向けるのは、嫌なことや望ましくないものではなくて、同時に起こっている存在している大切なものや好ましい結果に意識を向ける方が楽しい。
楽しいこと、喜びに満ちた自分。幸せに包まれていれば、嫌だったことも嫌でなくなる。
楽しいことをしているときはあっという間に時間が過ぎていく感覚で、嫌なことをやっているときは、いつまで経っても時間がすぎるのが遅く感じる感覚。
でも、最終的にはどちらでもなく、どちらも同じなのが真実です。時間の流れも目の前に現れることも、感情も自分の意識が創り出します。
それをどうやって見るのか、考えるのか、純粋に聞けばとても簡単なこと。でも当たり前過ぎて忘れるのも簡単なので、気がつくと日常の雑踏に紛れて、また見失ってしまう。
だから、いつでもこの話に戻って来れるように、日常的に自分を磨いて人生を日々歩いて欲しいのです。
私自身もそうしながら生きています。
人を支えること、助けること、応援すること、生きとし生けるもの全ての命を守ること、それが社会貢献であり、人を幸せにすること。
自分の喜びを人にも伝えていくこと。互いに幸せになること。
自分の幸せが人の幸せに繋がるような生き方をすることが、全てが上手く回る方法だということを知ってもらいたいのです。
だから結局、古くからある哲学も宗教も自己啓発もビジネス成功も、物理学までもが、この真実を理解して実践している人が伝えていることだから、結論は同じになるのです。
理解していなくても真似して発信している人も多いと思いますが、信じて行動していれば十分結果が付いてくると思います。
行いが大切なのです。
でも、最終的には結果に見返りを求めなくなります。
欲望を向ける矛先が、消えてはなくなる外側にあるものを追い求める執着から、真実の知識を求めることだけに変わります。
そうしていると、自然と必要なものは手に入ってきます。
私もヴェーダンタを聞いていることがいちばんの幸せで、それを話しているのがとても楽しいから、この聖典の知識を全て完璧に頭の中に取り込みたい。
でも、朝から晩まで何度も繰り返し聞いているにもかかわらず、毎回忘れてしまっていることが多くて全てが新鮮に聞こえます。
本当に当たり前すぎて忘れてしまう真実の話。聞いてる時がいちばん楽しくて最高に幸せ。
でも、全部覚えられなくてもいいのです。人間だから。見えないこともたくさんあるのが人間らしさです。
なので私はこういう人たちにフォーカスを当てて、伝えてきたしこれからも伝えて生きます。
真実を理解できる人しか、かまらヨガリトリートには来ません。それは、紛れも無い事実だから断言できることです。
これまでに全国から、海外からも来て下さった方々の全てが、来て良かったと思って下さったこと。考え方やものの見方が変わったと思って下さったこと。
それは、絶対に変わらない永遠の幸せをヨーガが教えてくれているからです。
私がいちばん大切にしていることは、心の健康と体の健康です。
心が豊かで健康であれば何でもできます。
そして体が健康であればいくらでも動けます。
どちらかだけでも問題ありませんが、どちらも手に入れられるのなら、それを保てた方が何よりも自由でいられます。
だけどこの世の中は、何かに不自由な方が本当の幸せを手に入れることができるのが実際です。
なので、どのような状況であっても、より良く心と体が健康であるように生きることが大切なのです。
何らかの障害や、病で今世の残された生命がとても短く限られているとか、そういうことがあるのならむしろ積極的に行動して行くことが実を結びます。
人間である以上、この体がある以上、この世で活動できる期間には限りがあります。
ですから、限りある命を大切にして、限られた期間でできる行いを実践して、自分自身の人間らしさを発揮して頂きたいのです。
私たちは生きています。
生かされています。
この体には限りがあります。
どうか知って頂きたいのです。
なぜ限りがあるのかを。
自由に好きなことを選んで生きて頂きたいのです。
嫌われる方にフォーカスするのではなく、自分の心に従って生きて頂きたい。
自分に問いかけて見てください。「私は何をしたいのか」
誰かにどう見られることにばかり意識を向けるのではなく、自分自身の心の声に従ってありのままに生きて欲しいのです。
そして障害を持った人の方が、何不自由なく満足に生きられるはずの人よりも、心が充実している人が多いことを知って欲しいのです。
どれだけその方々に勇気付けられるのか、力づけられるのか、希望を与えられるのか。
限りある人生だということを知っているからこそではないでしょうか。
障害がある人ほど有意義な人生になり、本質を見抜き、発する言動には信憑性があるというのは、私個人の見解ですので、もしそうではないというご意見があれば、ぜひご意見ください。
たくさんのご意見によって、ディスカッションできれば、私の知識も発する内容もどんどんと深く広くなり、さらに多くの人々の幸せにつながっていきます。
伝統的なヨーガの教えを元に、一時的なものではなく、真の幸せに生きる喜びを感じて欲しいと願い、心から祈っています。
最後にもう一度言いますが、嫌いとか文句や悪口を言っていたり、制圧するということは、愛情の裏返し、愛着行動ですから、言われたら有難く受け止めておきましょう。
その人たち自身が自分で発信している波が自分自身に返っていく現象であり、自分にも同じだということを客観的に観ること、そしてたくさんの気付きをもたらしてくれることに感謝することを忘れずにいましょう。
そちら側にばかりフォーカスせずに、そういう人たちも皆同じ素晴らしい存在です。
だから、嫌われることって意外と悪いことだけではないですよ。
感謝は意識を綺麗に浄化してくれます。
裏返った愛着行動も同じ愛の形です。
それですら愛おしいと思えるようにもなります。
愛を頂きましょう。
そして嫌悪や拒絶や戦うのではなく、思いやりや感謝の愛で返せば、自己否定から自己肯定に変わっていき、劣等感から自尊心になり自己受容して、その人たちも幸せになりますから。
自分の中にも、人を否定する気持ちや自分を小さく見る癖が湧いてきたら、ただ見守ってあげれば良いのです。それをまた否定したり、いけないんだ、ダメなんだと抑圧してしまうと、どんどん大きくなってしまいます。だから湧いてきても良いのです。見守りましょう。
誰にでも自分を小さく見てしまう癖、否定してしまう癖はあるものです。だから安心してください。みんなそれぞれの価値観の中で生きていますから。
自己否定も素晴らしい宝物です。それがあるから努力して手に入れられるものもたくさんあります。
それがあるから人として成長することにもつながります。
ですから、ネガティブは案外素晴らしい宝物なのですよ。
みんなが幸せな意識であることを心から祈っています。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
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