Q「好き嫌いで選ばない」という教えはあまり理解できず、混乱しています。嫌いなことでもそれがダルマだったらやるべきなのは理解できますが、「好き」がモチベーションになっていることは悪いことでしょうか?
「好き」で選べられないなら何を基準に選択していったらいいでしょうか?私は好き嫌いでものを選べない、と聞くと、何をすればいいかわからなくなってしまいます。
A
ダルマ(義務・法・規律・秩序)に沿った好きならもちろんOK=īśvaraに捧げられる行いになります。
結果に期待はせず、もちろん、ある程度の期待や願望もあるけれど、思った通りに行かない、思った以上の結果、思った以下の結果、予想もしていなかった結果がありますので、結果はīśvaraに委ねることです。
人は好き嫌いで物事を選択していることがたくさんあります。
例えば、ビーチに転がっている貝殻にコインを上乗せして引き寄せられたり、暗闇に落ちているロープを見て蛇だと恐れ慄いて逃げたり避けたり、銃や刀で攻撃したりします。
これらは、adhyāsa・上乗せであり、理想や期待を重ねて落胆したり、悲しんだり怒りで人を傷つけたりします。
また、自分の過去の体験を通した記憶によって、優しさで言っていることも上乗せした思考の癖で間違った捉え方をしては怒りで攻撃したり悲しんだりして、自分や相手を傷つけます。
状況も好き嫌いで引き寄せられたり避けたりしていては、 īśvaraからあなたに合ったことを与えられて気づかせてくれるチャンスや運を逃してしまいます。
また、みんなが好むことをやりたがることで競争や奪い合いや嫉妬にもなり争いの原因にもなりますし、全体に偏りが出てしまい、結果としてadharmaになります。
いつでも与えられたやるべきことをやりながら、dharmaに沿ってīśvaraに捧げる行いと、 īśvaraから与えられる結果に感謝をしていけば、幸も不幸も、運も不運も、失敗も成功も、全て自分に合ったことばかりで楽しく幸せにいられ、やるべきこととやっていることとやりたいことが一つになっていきます。
なので、dharma=īśvaraに捧げられるかどうかを基準に物事を選択していけば良いのです。
Q
つまりなんでもsevā・奉仕として行うことが大切なんですね。
A
yes
Q
今置かれている環境が今の自分に最も合ってる環境だと理解すればいいでしょうか?
例えば貧しい家庭に生まれた人でも、一部はその人のカルマかもしれないけど、貧しさから抜け出すためのīśvaraからの試練みたいなこともあるでしょうか?
(その家庭に生まれたおかげで、意志が鍛えられ、勉強ができるようになる、、)与えられた全てのことが自分の成長のためになっているということですか?
A
過去の行いの結果を組み合わせて今世を始めさせるためのprārabdha-karmaによって、生まれる環境も人生に与えられることも役割も個性も人それぞれですが、人間が成長していくためには、貧しさも大切なことです。
人間の愚かなところは、裕福になればなるほど傲慢さや、失わないために嘘をついたりごまかしたり、貪欲になっていくものです。
貧しくても幸せで心豊かなことが、1番の富であり価値なのです。
だから敢えて裕福な家庭に生まれても、社会での役割を一通り終えたら、世俗的なことの全てを手放して物乞いをしながらmokṣaを完成させるために学び修行をする、人生最後のステージsannyāsī・ renunciation・離欲した生き方を送るインドの文化があるのです。
心を豊かにするには、お金や物質的な豊かさは必要ないのですね。
もちろん生活のための必需品や食料などはbhikṣāとして施し、教えをもらったときには
dakṣiṇāを渡し、sannyāsīにとって必要なものは周りの人々が支えます。
Q
その中でやるべきことをやらなければ、本当は自分のためになっているはずのチャンスを見逃してしまうということでしょうか。
そしてそれに気がついたら全ての経験に対して感謝しながら生きられる、全てがmokṣaに導いているからということですね?
A.
一つのエンジンを動かしているのは、大きなピストンや小さな小さなネジや、オイルや金型です。
もし小さなネジが、ピストンの大きな動きに憧れて自らネジの役割を放棄したらどうなると思いますか?
そのエンジンは、ピストンを固定しているネジが外れてしまっては動くことさえできなくなります。
それぞれが与えられた役割をすることで、この宇宙全体が一つに調和した動きになるのです。
それがsvadharma・自分のやるべきことをすることであり、 īśvaraというこの世界の秩序を一つに回している法則・dharmaなのです。
全体を支えている個人ということを忘れずに、やるべきことをすることが大切です。
Q
つまり全てがmokṣaへ導いてくれているから?
adharmaがprārabdha-karmaとして返ってくるのもdharmaに気づかせようとしているから?
A
どのようなことでも、自分のした行いの結果・ karma-phalaが返ってきていることが理解できれば、嫌なことや苦しいことでも、過去の自分を反省し、気づきを与えてくれて自分を成長させてくれるprasāda・授かり物だと受け取るだけなのです。
行い・karmaは自分の心を成長させるために、やるべきことをしながら社会のために貢献できることをします。
だから全ての行い・karmaは、 īśvaraに捧げられることをして、結果は何でもprasādaです。そうしてahaṅkāra・ego・個人の観念が拡張しいき、私が、私に、私の物・・・と言っていた小さな考えが全体に解消し、心が浄化されていくのです。
Q
そして全ての無知が取り払われると自分がātmanであるという結論に至る、、ātmanであると気がついたら「安心を得なきゃ」という気持ちがなくなり、何も得る必要がないということがわかる。でもjīvaがまだあるから、行いをしないといけない。でも自分は既に満たされているから、「自分の幸せのために」行いをする必要がなくなり、他の人やīśvaraに捧げられる行いをするようになる。。。?
A
ātmāと言うのは、jīva・個人の考えや体が私だと思っている時でもātmāと言います。自己認識に使う私のこと。だから、jīvaを私だと思っていた時も、brahmanが私だと理解しても、ātmāという言葉は私認識になります。
つまり、ātmāを体や考えだと思っていたjiva・個人が、avidhyā・ ignorance・無知が聖典・śrtiの言葉で取り払われて、brahmanがātmāだと知り理解することが人生の成し遂げるべきゴールでありmokṣaです。
Q
ただ全てがbrahmanであるため、 īśvaraや他人の幸せのためにした行いも自分の幸せにつながる?!
A
Yes!
人の幸せのためにした行いは自分の幸せのためにしていることになります。
全てはたった一人の自分です。
全ての生きとし生けるものに浸透しています。
だから知っているものも知らないものも認識していますよね。
Q
なるほどなるほど!
本当に、苦しむ必要ないですね。
だから本当だとわかること・真実を知ること・realizationというんですね!
A
自分自身のことをjñāna・知識とも言い、知識を求める人・jijñāsu、知識を得た人をjñānīとも言います。
人間の苦しみ・duḥkhaは、avidhyā・無知・自分自身を知らないことから起こります。
このvedāntaの知識を得て理解すれば、今の自分自身で安心安全で喜び満足なので他の何かになる必要もなく、nikhila-karma-bandha・全ての行いの束縛から自由になり、生まれ変わること・samsāraからも解放されます。
自分を小さく制限し閉じ込めていたahaṅkāra・ego・私観念や、あらゆる制限からも解放されます。
元々、制限のない無限で永遠の自分自身に落ち着くだけです。
Q
既にsat-cit-ānandaだから、必要なのはそれに気づくことだけ、、
気づいていないから外側に求める、、、ということですね!?
A
Excellent!
私たちの本質は、sat-cit-ānanda・存在、意識、喜び・満足・幸せです。
今まで付けてきた汚れ、間違った考え、私観念を識別・vivekaし、virāga・手放し続け執着のない平静さで、その自分自身にただ身を委ねる生き方です。
だから安心も喜びも既にあるので、探す必要も求める必要も得る必要もないのです。
この体も考えもātmāではないanātmāであることが理解できれば、この人生を始めさせたprārabdha-karmaがまだ残っているので、生きながらにして自由・ mokṣaを得た人・jivan-muktaとなり、この体や考えを使って、ただ一つのbrahmanとして全ての質の源であり可能性・māyā-śaktiを使って、īśvaraそのものとして生きていくのです。
mokṣaを得た後のkarmaはjivan-muktaには返ってきません。何の影響もありません。kartā・行い手でもbhoktā・体験者でもないけれど行いはするので、作り出したāgāmi-karmaは行き先を失うため、他の人たちに分散されます。
この知識を教えるなどたくさんの良い行いの結果・puṇyaは、jivan-muktaの周りでお世話をする人や称賛する人たちに行き、知らずして虫や微生物をhiṃsā・殺生してしまうなど、ほんの少しの悪い行いの結果・pāpaは、痛めつける人や悪口や非難する人に行きます。
Jivaとして個人名義で蓄積されていた、次の生まれの原因になるsañcita-karmaも破壊されるので、samsāraから解放されます。
この辺りはTattva-bodhaḥで学びます。
しかし、心を浄化させる生き方、人のために社会貢献をし、物事に動じない平静さや、上乗せした偏見や間違いなどの主観から自由になり、客観的で広い視野で冷静に物事を見ることができなければ理解ができないので、いくら学んでも言葉を覚えても、自分のこととして理解ができません。
理解できないのは、気づきが起こるsattvaがtamasに覆われているからです。
歪んだものの捉え方が邪魔をして、物事をあるがままに見えなくさせてしまいます。
実際の生活の中でも狭い視野の中でしか物事を見ることができず、小さなエリアでしか考えられないと、全体に対してadharmaになることもあります。
そういうことも全て見抜いて慎重にdharmaを選ぶことが常に必要です。
過去のadharmaな行いの結果は祈りで中和されます。
そのためにも、音である言葉で先生から直接聖典を学び、正しい質問をしながら、antaḥ-karaņa-śuddhi
考えをきれいに浄化させるkarma yogaの生き方をすることが大切なのです。
Q
答えを想像しながらも聞いているんですが、私は長い間自分のsvadharmaから遠ざかっているような気がして、正しい道に軌道修正したいんですけど、それをするにはどうすればいいか、ギーターなどに書いてあるでしょうか?
A
Bhagavad-Gītā 2章3章でkarma yogaの話題に入っていきます。
4月から2章に入ります。
Q
いま目の前にあることが今のやるべきことだとしても、ずっとこれだけをやり続けては、やりたいような社会貢献はできないような気がします。やっぱり前に進むためには色々な努力を重ねる必要がありますか?
どこかでsvadharmaの話をじっくり学びたいです。
A
今与えられたやるべきことに加えて、dhāna・与えること、チャリティでも仕事でも、知らない人を助けることがdharmaの喜びになります。
Yogaの生き方を始めたばかりでも、mokśaを得た後でも、yajña・儀式、dāna・与える、tapaś・努力・鍛錬は続けた方が良いと聖典は言っています。
Q
Svadharmaを正しく認識するにはやっぱり直感を使うのですか?
A
直観も一つの要素ですが、それが客観的に見て全体の社会、地球、自然、宇宙、 īśvaraにとって本当にdharmaなのかどうかを慎重に見極めながら選択することが大切です。
adharmaに生きるドゥルヨーダナのように嫉妬で人から大事なもの全てを奪い、自分を守るために周囲へ巧みに世話を焼き仲良くし褒め称えるなどして恩を着せられたり、賄賂や仕返しが怖くてadharmaに味方につくこともたくさんあります。
色々もらったしお世話になったから、とadharmaを選択しがちです。
嫉妬は人を盲目にし、自分では正しいと思い込んでいても、見当違いの解釈でadharmaな言葉や態度にもなります。
Q
例えばなんですけど、自分のsvadharmaだと思っていたことを、無知のせいで一時的に遠ざかってしまった場合、、やっぱり正しい道に戻る努力は必要ですよね?
A
もちろん今よりも知識と技術を磨く努力をすることでも、今やっていることがより楽しくなります。
それを貢献のためにすれば良いのです。
お金や地位や名誉のためにするのではなく、自分がもっと努力すれば、さらに人のために役に立つと思って努力を続けることです。
Q
私はお金とか地位とかそれほど求めていないんですけど、私というjīvaならではの貢献がしたいです
A
今のまま、学びと仕事の努力を続けていれば、それ自体が社会の役に立ち、知らない誰かを助ける貢献になります。プラス寄附やボランティアでも良いし、小さなことでも一つ一つ、日常的に人を助けることをしていけば良いのです。
全てīśvaraから与えられ運ばれています。
だから何も心配することなく安心して、全ての生きとし生けるものが平和で幸せであることをお祈りしながら行いをすれば良いのです。
dharmaに生きる人は、dharmaがあなたを守ります。
īśvaraに祈る人は、īśvaraがあなたを守ります。
状況を変えなくても、起こるべくして起こること、会うべくして会う人、得るべくして得られること、失うべくして失う物、季節の移り変わりも移ろう心も、全てはīśvaraからのkṛpa・恩恵であると真摯に謙虚に受け取り、そしてその移り変わっていく姿を見ている、移り変わりのないあなた自身が、ただただ幸せに在ることに気づいていきます。
Om tat sat🙏