人をジャッジするとは、人を外見的なことや言葉、態度など、目に見える部分だけを見ては、自分の知っている限りのものを重ねて見て、良い悪いと決め付けて判断することです。
よく、アーサナヨーガを誘導するときに、「ジャッジせずに」と言う言葉をかけられることがあると思います。
それは、良い悪いの判断ではなく、今そう言う状態なのだと知ることです。
COVIDー19で外出自粛になった中で現れたのは、外出する人への批判、圏外ナンバーの車への嫌がらせ、感染者や医療従事者への偏見などです。
そう言うこともジャッジから起こっています。
良い悪いとジャッジするのであれば、その改善策と目標まで明確に打ち出すことが賢明ではないかと筆者は考えます。
人を外見などで判断して猛烈に批判すると言う行為は、SNS上でも炎上という言葉で頻繁に起こっています。
先日もお亡くなりになったプロレスラーの方が、SNS上で猛烈に批判されたり誹謗中傷されたとの記事を見ました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
他人を気に入らないことも、認められないことも否定することも、文句を言うことも、自分自身にあるものを重ねているだけです。
自分を見ているのです。
もしそう見えて気に入らないのであれば、見ないようにすれば良いことです。
なのにまた批判したくて、見ては相手に文句を言う。
自己否定や劣等感で自分を認められないことから、自己肯定感が持てず自尊心の低さや嫉妬で起こっています。
自己否定も劣等感も、誰にでもあることで、勉強や練習を重ねて自己成長に使うためには必要です。
自分の見えるものを重ねてあれこれ言う前に、相手がどのようなことを考え、思い、普段しているのか、想像力を働かせてから言う必要があります。
その上でこうしたほうが良いと言うことがあれば、こうすればこうなると言う目的や方法を提案することが必要です。
批判的思考というのがありますが、それはただ批判することで終わるわけでなく、感情的に自分の考えを押し付けるものでもありません。
今あることや相手の持っている考えに対して、反対の意見があれば、いたって冷静に理知的に反論をした上で、なぜそうなのか、どうしてそうなるのか、その原因や根拠を示して、改善策を打ち出したり、物事をより良い方向、本質へと向けるためにあります。
それでも相手が理解できずに会話が建設的にできないのであれば、そもそもの視座が違いすぎますので、いつまでも論争を繰り返してもその人にとっては難しいので、必要以上に関わらないことが大切です。
そして、人として成熟した人の怒りが湧く時は、人を傷つけたり嘘をついたり、人が嫌がることを続けたり、何かを奪ったり、人が間違っている方向に進みそうになる時くらいです。
ちょっとしたことで苛立ち怒りが湧くのも、自分の未熟さを目の前にある人や物事に重ねて見ているからです。
目に見えることだけを見て、重ねられる範囲の自分の持っているものを見ている。
相手の背景を想像できない、未熟さゆえです。
そして、一定数人の嫌がることに気付けない人は居るものです。
パレートの法則(8:2の法則)や、松下幸之助さんの2:6:2の法則など、物事にはそれなりの数に分かれることが言われています。
あなたことを大好きで称賛して尊敬して認めてくれる人が2割いれば、猛烈に嫌いで批判して認めずに文句を言う人も同じくらいの数いると言うことを理解しておきましょう。
そして、「1%の法則で、ネット上のコミュニティ(掲示板やSNSなど)はほとんど(99%)が読むだけで、実際に書き込み・発言するユーザは全体の1%しかいない」という法則があります。
良いと思っていても書き込まない人がほとんどです。
それをしっかりと理解しておくことが大切ですね。
人として成長するためにも、人の考えをたくさん聞いて、自分の考えの中に取り入れて、人の感情や思考パターンをいくつも知ることが大切です。
それにはまず、相手の話を聞いて、そこに自分の感情が湧くのであれば自分自身の感情を観て知ることが大切です。
共感的に使えていれば良いですが、怒りや苛立ちは視野を狭めてしまいます。
いつも良いことを見ることができ平和で幸せな人は、単純にお花畑が頭に咲いている平和ボケではありません。
良いも悪いもなく、称賛も批判もする人たちの思考が理解できているから、どこに目を向けて生きていくことが大切なのかを知っているからです。
賢く平和に生きましょう。
いつでも穏やかな日々を過ごせますことをお祈り申し上げます。