私がこうして色々と哲学的なこと、真実の話を書いているのには、ただ大好きだからという理由で必要な人に届けたいと思う願いと、もう一つあります。
数年前に30代半ばにして、脳腫瘍で亡くなった海仲間の知人が居ますが、その時のお話をします。
しばらく会うことはなかったのですが、その数年前に悩んでいたことを聞くことがあったのですが、その人はしてくれないことばかりに意識が行き、あれもしてくれないこれもしてくれないからもう嫌だということを言っていたので、その時に私が伝えたことは、「人との関係を終わらせるのはいつでもできるけど、もっと目の前にあることを大切にした方がいいよ。してくれないことばかりに目が行くから、辛く嫌なことばかりになるけど、こうして素晴らしい宝物を頂いていることとか、してくれたことに感謝した方がいいよ」という話をしたことがありました。
その人は、とても明るく積極的で、物凄く子供っぽいところもありましたが、やりたいことをどんどんと形にしている人でした。
仮にAとします。
告別式の帰りにAの仲間たちが話していたことが、とても残念な気持ちになるものでした。
Aは、仲の良かった親友Bに対して、怒りと憎悪を抱き、他の人と仲良くして仕事を手伝っているのを見て嫉妬し、Aの活動しているエリアで他の人と組んで同じような活動をしていることに対して、とてつもなく怒りを抱き、そういうことするなら頭下げて挨拶して筋を通せ、と言っていたとか、周りの友人にもBを無視するようにお願いして、周りの友人までもがAの言う通りにBを無視する結果になったりして、とても未熟な考えだと思いながら聞いていました。
そして、亡くなった後も、お通夜や告別式にも、Aが嫌がるからBを行かせないようにと、他の友人が電話で『うちわで見送るから招待されている人しか行けない。呼ばれてないなら行けないよ。』と言って、最後のお別れすら会わせないようにしたと言う話を、みんながずっと話していて、私は驚くばかりで、その場ではただ聞いているだけでした。
私は、その人たちと居る時はあまり話をしません。話す内容が全く価値観が違うので、馬鹿にしているとか見下しているとか、そういうことではなくて、私に無いところがたくさんあって凄いなぁとか、そう言う考え方もあるのだなぁ…と、自由奔放な考え方で、いつもただ微笑ましく穏やかに微笑みながら、みんなの会話を聞いているだけなので、あれこれディスカッションすることは少なく、口を挟むこともなく、その時も何も言いませんでした。ただただ、すごい考え方だなと思うばかりだったので、「凄いね、凄い考え方だね」と一言いうだけでした。(自由奔放すぎて、その仲間内の一人は、私が何をしても怒らないので、余計に怒らせるようなことをたくさんして来たり言ったりしていたのが続いていましたが、最終的には何をしても怒らない人だと言って、自然と離れていくようになりました。価値観が違いすぎると、正直なところ呆れることはたくさんありましたが、怒ることもなくなるのですね。)
ただ、私の固定観念の枠を取り払う学びを与えてくれたのも彼らです。なので、良いとか悪いとかではないのです。上からとか下からとか、横からでもなく同じ場所なのです。
そして、海を愛する想いに隔たりはありませんし、皆同じです。
だけど、私の考えは、AはBに対してものすごい愛着(執着)を持っているから故の怒りと愛憎であって、本音はAと一緒にいて欲しかった、ずっと仲良くしていたかった、他の人と組んで仕事をするのを見て、自分だけのBでいてくれなかったことが悲しかった、離れていって寂しかった…と言う全て裏返しの感情の表れでしかないので、最期に会った方が良いのに、周りが会わせないようにすることも信じられないほど未熟だと思いました。
その日、やはり家に帰ってから、真実を伝えて会わせてあげなければ、AもBも周りの人たちも、苦しみから解放されることはないと思い、みんなにメッセージを送りました。
「嫌いも憎しみも、深い愛情の表れでしかない。もっとBにああして欲しかった、こうして欲しかったという依存心や執着心。どうでもいい相手にはそんなこと思わない。子供が親にねだったり甘えたりするのと同じ。それだけ親密な関係ということ。本当はAはBに会いにきて欲しかった。いろんな状況を話して仲良くしていたかった。死んだ後も会わせないようにしたのは、Aの蒔いた種だけど、それをした周りの人にも同じことが返ってくる。ちゃんとBがお焼香に行けるといいね。大好きすぎて、自分の思いをわかって欲しいのにわかってくれないから、そのジレンマが愚痴や悪口、文句になる。人に思いを満たしてもらいたいのは、自分が満たされていないから。それを人や物、環境など外側に求めて埋めようとする。全ては自分自身から発信していて、それが返ってくる。自分で自分を満たすこと、本当は満たされていることを気づけば、人への執着心はなくなっていく。いつも穏やかで、人を許せて受け入れることができ、認めて見守ることができる。それも自分自身にしていること。Aは、してくれないことばかりに目が行く。でもそれは、自分から発信していることが返ってきているだけ。いつも愚痴や悪口、文句を言っている人自身が苦しい。生きている間に学ぶことは、自分自身を知ること、周りの人の嫌な部分は自分自身。それを見せてくれることに感謝する。最終的には、好きも嫌いも同じ。快楽と苦しみも同じ。成功と失敗も同じ。二極化することで見えるようにできているから。そして全ての人は同じだということを知ること。自分の偏見を取り払い、全てが同じに見えて、自分を省みるために学ばせてくれいている人だから、常にありがとうと感謝できるようになること。四十九日前にお焼香に行けると良いね。Aが残した強いわだかまりを解消して、心穏やかに喜びに満ちて旅立てるから。早い方がAも楽になるよ。」
と、送りました。
でも実際には、人は亡くなってからは真実を学べません。
ヨーガで、ラージャヨガを一生懸命修行した人は、死んだ後に真実を学ぶことはできますが、また生まれ変わってきます。生まれてから学べるかどうかはわかりません。
生きている間に学ぶ以外は、何度でもまた人間として生まれて学び理解するまでは、人生を繰り返し繰り返し、輪廻転生してきます。
そして、いつまで経っても、永遠の幸せにはたどり着けません。
人は、死に際に抱いた考えや思いや感情のまま、次に生まれ変わります。
だから苦しんだまま亡くなると、生まれてくる環境が苦しかったりするのです。
だからこそ、生きているうちに真実を知ることが大切なのです。
ニャーナヨガを学ぶことでしか、その真実を知り理解することは得られません。
元々知っている人もいますが、前世で学んでいるから知識として持っていたり、真実の話を聞いてすぐに理解できるのです。
知人の中にこんなに未熟な思いで苦しんで、若くして亡くなってしまったことに、本当に残念な思いがありました。
生きていても亡くなっていても、体があるか無いかだけで、それ以外は何も変わりませんので、亡くなることが残念なのではなく、生きているうちに苦しんでいたことが悔やまれ、そのままの思いや感情で亡くなってしまったことが残念でなりません。
だから、Aに直接は伝えられなかったけど、やはり届く人、響く人のために真実の話を発信していこうと、強く心に決めたのです。
この話を、私は真実の幸せを知って欲しい、みんな幸せでいて欲しいという思い、願いで祈りを込めて伝えています。
でも、このことをとある人に話そうとして、途中まで話をしていたら、遮るように「高慢だよ、悟ったようなこと言ってるけど」と言われました。
これが愛に見えるか、慈しみに見えるか、優しさに見えるか、思いやりに見えるか、人助けに見えるか、はたまた高慢に見えるか、見下して見えるか、馬鹿にして見えるか、間違って見えるかは、その人自身の過去の行いの結果でしかありません。
いかようにも見えるのは、その人自身の心の表れです。
真実は、変わりのないたった一つですから。
だから私は、発信を続けて届けたいのです。
自分で自分を苦しめている人自身や、その周りの人へ。
押し付けることはしていません。
このブログで発信して、求める人が読み、かまらヨガ 華曼羅瑜伽のヨガリトリートには、そういう人を導けるような人が来てくれています。
そして、話を聞いてくれる人だけに伝えています。
心の奥底から溢れている思いは、みんな幸せでいて欲しい。
だからどうか、気づける人に気づいて欲しい。
本当は全ての人に幸せが溢れていることを。
心から日々祈っています。
あなたは元から幸せなのだよ、ということを知って欲しい。
見る視点をほんの少し変えるだけで気づける真実を届けたい。
どうか届きますように。
祈りを込めて…