久しぶりにヨガ哲学のお話しです。
今日は、怒りのスイッチについてお話ししたいと思います。
怒りというのはなぜ湧くのか、怒りの原理について説明します。
まず、イラっとくる怒りのスイッチというのは
実は自分自身なのです。
自分の過去の経験を通して、自分の嫌いな部分、許せない部分を相手に見るのです。
そしてさらに、その苛立ちが怒りになる理由は、執着心。
相手や物事に対して、どうしてこうして欲しかったのにそうしないんだ、
なんであーして欲しかったのにそうしなかったんだ、
なんで自分はここまでしているのにそっちはそうしないんだ、
どうしてこれだけのことをしているのにわかってくれないんだ、
というような、自分の願望を押し付けるエゴからくるものです。
怒りのカプセルに入っている人のお話をこのブログでも書いてきましたが、
全ては自分の強い願望から執着心になりエゴとなったものが
怒りの感情として現れてきますが、
怒りに満ちている人というのは、その人の周りを覆っている透明のカプセルの中で
自分から発する強い尖った感情、ラジャスと言われるものを激しく燃え上がらせ
その発したエネルギーは覆っているカプセルに反射して自分に返ってくる。
だから怒りに満ちているととても疲れるしストレスを溜め込み
病気にもつながっていくのですね。
これまではエネルギーの向きでお話ししてきましたが、
今日は燃えたぎるラジャスを炎にたとえてお話ししますね。
燃えたぎる炎はメラメラと燃えたぎるけれども、
そのカプセルの中ではどんどんと酸素不足によって鎮火せざるを得ませんが
燃え尽きた煙が一酸化炭素となって自分自身が一酸化炭素中毒になって意気消沈し、
しまいには命まで落としてしまう、自爆行為なのです。
では、どうしたら怒りを持たずに居られるのか。
それは生きる意味や人の本質を知れば容易なことですが、
なかなかそれを知ることもなければ、知ったとしてもそれを実際に実践することは難しいですよね。
ラジャスという言葉を出していますが、これは激質と言われるものです。
サンキャ哲学の中では、プルシャとプラクリティというものがあります。
プルシャとは、人間の本質の部分であり全ての人にある絶対に変わらない何にも揺るがない部分である純粋精神。
プラクリティというのは、その本質の周りで移り変わるもの、動きゆくものである感情や事象など、
サットヴァ=純質、ラジャス=激質、タマス=鈍質、と言われるものです。
この二つがあって二元論と言われていますが、最終的にはこの純粋精神であるプルシャが
移りゆくものであるプラクリティに、瞑想によって揺れ動かされることなく巻き込まれることもなくなり
プルシャとひとつになることが悟りと言われるものであり、
ヴェーダンタ哲学でいうところの不二一元論になるわけです。
プルシャとは、ヴェーダンタではイシュワラと言われる創造神であり、
プラクリティは、アデアローパと言われ、全ては自分の間違った認識によって創り出されている世界で
まるで蜃気楼のようなもの、と言われています。
本当はこの世は全てがひとつで、私もあなたも自身が内側にある神の存在に気づけば、
全ては自分と同じように見え、怒りのスイッチが入ったとしてもそれには原因があること、
自分自身や相手の理由が理解できるようになるのです。
自在神に気づくと、常に自分自身がひとつになっているので、
周りで起こるラジャスやタマスなものに巻き込まれることがなくなり、
常に冷静に客観的に物事を見ることができます。
そうすればどんなことが起ころうとも、自身に身を委ねることによって
怒りや苦しみから逃れられるようになるということなのです。
でね、怒りに満ちている人というのは、実はとっても弱いものなのです。
自分の中の空虚感を外側で満たそうとするが為に、満たされなかったものを外側のせいにして怒る。
本当は自分の中の空虚感を認めるのが怖いのです。
何度も何度も、瞑想を練習して自分の中の空虚感を認めて
それでもいいんだよって許してあげて、ありのままの自分を受け止めて
少しずつ自分自身に満たされていく。
そして今ここ、この瞬間に身を委ねていくことで、いつまでも外側に注いできた水が
自分の内側に満たされてきて、私は満たされているということに気づき、
自分自身に満たされていくのですね。
満たされている=満足すること。
今、ここ、この瞬間に満たされて、常に今が幸せでありますように。
マインドフルネスな瞬間瞬間をつなぎ合わせて1日を、1月を、1年を積み重ねていきましょう。