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瞑想の定義は日常でいつでも本質に返ることができること

瞑想の定義は、本質にいつでも戻れることですが、瞑想と聞くとずっと座って無にならなくてはいけないイメージですよね。座って瞑想するのは良い練習です。

ただ、いくら座って瞑想を続けていても、知識は得られません。

本質とは、イシュワラ、神、源、原因宇宙、真我、純粋精神、意識、宇宙、プルシャ、バガヴァーン、ブラフマン、こういった言葉で表されますね。永遠に変わらないもののことを言います。

本質でないものは、質、プラクリティ、自我、個人、グナ、サットヴァ、ラジャス、タマス、ジーヴァ、移ろいゆくもの、変わりゆくもの、壊れるもの、永遠でないもの、色褪せるものe.t.c.

永遠に変わらないものと、変わりゆくものを見極めることも瞑想の一つですが、日常生活の中で常に永遠に変わらないものに対する敬意と尊敬の気持ちで過ごし、変わりゆくものを眺めることができることと言いましょうか。
なので、瞑想というのは特別な体験でも、非現実的でも、非日常的なものでもありません。

とあるヨガTTCの通訳さんが、ご自身の瞑想体験の話をしていたのですが、すっごい何とも言えない幸せな感覚だったとのことで、それはいわゆる精神構造からくる体験にすぎず、ヨーガでいう瞑想というのは、常にイシュワラに生かされていること思いながら日常生活を送ることです。

間違った解釈や、間違った考え方の人についていくというのも、その人の過去の行いの結果ですから仕方ありませんが、正しい知識を得ることができれば、これまでの間違いも見えてきます。

途中経過で間違うのは人間ですから当然のこと。そこから正しい道に進むことができるように、たくさんのだるまに沿った行いをしていくことが大切ですね。

体験をいくら重ねても、知識は得られないと言われています。

間違いは誰にでもあることですので、その間違いに気付くためには、聖典を学び正しい知識を得て、間違いを訂正していくことができます。

間違いや無知によって見えなくなる機能というのは、人間に与えられた宝物です。

新しいゲームを始める時に、全ての知識があったらやる気も起きませんよね。

だから、無知という闇があって、正しい知識という光があるのです。

ヨーガの聖典を個人で勉強するものではないと、よく言われますが、それは、もともと言葉で言い伝えられてきた、この宇宙の始まりからずっと変わらない教えが存在していて、宇宙が始まった時から同じ教えが受け継がれてきています。

正しい知識の教えにはグルがいて、そのグルにはグルがいて、辿っていくと宇宙の始まりになります。その教えを受け継ぐ形で学ばなければ、真実とは違う間違った解釈や捉え方になってしまうからです。

日本語のヨガ哲学書も、結局は訳者の解釈を通して書かれていますので、それを読んでもそこにはグルは存在しません。ただの訳者が聖典を読んで見た感想の本になってしまいます。

聖典を学び始めても、なかなか日常生活で本質を見ながら生きるというのは難しいかと思います。

理解できないときは、目の前にあるもの全てを受け入れなければいけないのか、何もしないで見ているのが正解なのか、などなどたくさんの疑問や理不尽さや、グルへの反発心が生まれたりします。

そこからさらに学べることができ、理解に近づいていけると、もっと深く理解できるようになるのではないかと思います。

でも、それも過去の行いの結果ですので、わからなくても学べることだけでも素晴らしい体験です。

今世で達成しようとしなくても、来世でもさ来世でも大丈夫です。

焦らずじっくり学び続けることが大切です。

最初から聖典を学ばずとも、まずは何を意味するのかを知ってみることも大切です。

是非リトリートでヨーガとは何かを知り、本質に気付けるきっかけになることを祈っています。

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