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純粋な自己愛

純粋な自己愛

先日の勉強会で、自分自身の本質アーナンダの「幸せ・満足」が腑に落ちないと言う意見があり、以前スワミダヤーナンダジが愛の講座でお話しされた内容をスワミチェータナーナンダジが翻訳された一文を引っ張り出してから、ありがたいことにインドのARSHA VIDYA GURUKRAMからBrihadaranyaka Upanishadの講座を購入できるので、聴き始めました。

助産師でしたら一部は当たり前の理解になると思いますが、無条件に愛おしい愛に溢れた感覚が常に全ての人にあります。

それが自分自身の本来のあるべき姿です。

しかし、多くの人が様々な経験を通して本当の自分自身を忘れ、あるがままに物事を見ずに、どうせ私なんか、なんであんな奴、などなど、嫉妬や勘違い自分への自信のなさetcを重ねて、自分や他者を見下げ蔑んでみたりされたり、自分を認められず馬鹿にしたりされたと思ったり、批判や非難をしてみたり、怒ってみたり、怯えてみたり、悲しんでみたり・・・と、小さくなった個人の自分の見えるものを重ねては、自己否定をして自分も他者をも傷つけてしまいます。

人を愛することは、自分自身を愛すること。

目の前にいる人は自分自身であると言うことを、改めて再確認して感謝や尊敬や愛の言葉をかけられると良いですよね。

パートナーだけではなく、出会う人全てにそれができると良いですよね。

毎週土曜日、ヨーガの生き方オンライン講座でもお話ししています。

ご参加希望の方は、メール下さい。

kamala0yoga@gmail.com

Brihadaranyaka Upanishadから、一部抜粋します。

「生まれながらにして私たちが持っている自己愛に対して、他者や物に対する愛は、生後に発現したり開発される愛なのです。さらに、自己愛は普遍的な愛であるのに対して、他者や物への愛には普遍性はありません。ある人が愛する人や物が、別の人からは見向きもされません。状況に応じて来ては去る愛(まるで見えるように見える物。識別するとまるで消えて無くなる物)なのです。自分以外に無条件の愛を求めても、それは叶うことがありません。「愛してると言ったのに」と、怒りや憎しみにすら屈折する可能性のある愛が他者や物への来ては去る愛なのです。

生まれて来た赤ちゃんにとって、お母さんは100%の信頼であり神様なのです。そこに完璧な委ねがあります。しかし、やがてその信頼が壊れる日を誰も避けることはできません。お母さんも能力に限りのある個人であって、時には不安や苛立ちをあらわにする日があります。その日がやって来ます。小さな子供の心は混乱します。そのお母さんを見て、子供にとってはお母さんの問題には見えないのです。子供は自分自身を咎めるのです。小さな子供の言葉にできない自分自身の咎めは、自分は不完全であるという感覚として、深く心に残ります。例えお母さんでなくても、お母さんに代わって育ててくれる人との関係の中で、誰もがこのプロセスを経て大人になるのです。

不完全な自分自身の根深い感覚を証明するかのように、私は限られた体や考えで、限られた知識や能力ですから、学べば学ぶほど小さく取るに足らない私はますます本当に見えます。こうして取るに足る私になりたくてなれない葛藤が人生となるのです。富や力や名声、知識、技術、理想の家庭やパートナーなどを得たとしても、「私は不完全」という感覚が癒されることはありません。こうして受け入れ難い私が続きます。

聖典の言葉に耳を傾け、自分自身を知り、その自分自身と体や考えの個性の間に混乱があり、自己愛が不完全に見えていることを知知らなければなりません。実際、自分自身の真実は愛そのものなのです。私はその私を知らなければなりません。

愛おしい物があるところ、そこがアーナンダ、喜び、満足、幸せがあるところです。来ては去る愛が移ろい消え去ってしまうのは、アーナンダ、喜び、満足、幸せが去るからではありません。アーナンダ、喜び、満足、幸せはいつも現れています。

生まれながらであり普遍であり無条件に愛おしいもの、自分自身は、喜びと満足の源なのです。それゆえに、自分自身とは最も愛おしい人であると聖典は教えています。

もし、私の本質が、限られた人であればそれが本質ですから、それが心地よいはずなのです。なぜなら、それが私の本質であるからです。ところが、私は、限られた感覚からの自由が欲しいと思います。私は、限りのないアーナンダ、喜び、満足、幸せの私を知らなければなりません。知らないことは決して見えません。知った時、それは当たり前の見え方になるのです。」

夫から妻への会話のシーンで、「妻よ、夫が愛されるのは夫の愛おしさのためではない。自分自身の愛おしさのために、夫が愛されるのだ。妻が愛されるのは、妻の愛おしさのためではない。自分自身の愛おしさのために、妻が愛されるのだ。息子が愛されるのは、息子が愛おしいためではない。自分自身の愛おしさのために、息子が愛されるのだ。富が愛されるのは、富が愛おしいのではない。自分自身の愛おしさのために、富が愛されるのだ。・・・ありとあらゆるもの、どのようなものが愛されようと、それらが愛おしいためではない。自分自身の愛おしさのために、あらゆる物が愛されるのだ。ああ、妻よ。その自分自身が知られなければならない。自分自身が知られることで、自分自身は何かの教えを聞くことによって、それが考えられることによって、その熟考によって、この全世界が知られるのだ。」

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बृहदारण्यकोपनिषत्

मन्त्र ५[II.iv.5]

स होवाच

न वा अरे पत्युः कामाय पतिः प्रियो भवत्य्, आत्मनस्तु कामाय पतिः प्रियो भवति ।

न वा अरे जायायै कामाय जाया प्रिया भवति. आत्मनस्तु कामाय जाया प्रिया भवति ।

न वा अरे पुत्राणां कामाय पुत्राः प्रिया भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय पुत्राः प्रिया भवन्ति ।

न वा अरे वित्तस्य कामाय वित्तं प्रियं भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय वित्तं प्रियं भवति ।

न वा अरे ब्रह्मणः कामाय ब्रह्म प्रियं भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय ब्रह्म प्रियं भवति ।

न वा अरे क्षत्रस्य कामाय क्षत्रं प्रियं भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय क्षत्रं प्रियं भवति ।

न वा अरे लोकानां कामाय लोकाः प्रिया भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय लोकाः प्रिया भवन्ति ।

न वा अरे देवानां कामाय देवाः प्रिया भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय देवाः प्रिया भवन्ति ।

न वा अरे भूतानां कामाय भूतानि प्रियाणि भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय भूतानि प्रियाणि भवन्ति ।

न वा अरे सर्वस्य कामाय सर्वं प्रियं भवन्ति, आत्मनस्तु कामाय सर्वं प्रियं भवत्य्

आत्मा वा अरे द्रष्टव्यः श्रोतव्यो मन्तव्यो निदिध्यासितव्यो ।

निदिध्यासितव्यस् मैत्रेय्य्, आत्मनो वा अरे दर्शनेन श्रवणेन मत्या विज्ञानेनेद सर्वं विदितम् ॥ ५ ॥

ॐ पूर्णमदः पूर्णमिदं पूर्णात्पूर्णमदुच्यते ।

पूर्णस्य पूर्णमादाय पूर्णमेवावशिष्यते ॥

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥

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