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モークシャの完成に必要な技術の一つ”止揚”

ヴェーダーンタ勉強会九十九里

モークシャの完成に必要な技術の一つ”止揚”

sublation;止揚、揚棄、(アウフヘーベン)

止揚とは、精選版 日本国語大辞典によると、” ヘーゲル弁証法で、低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、いっそう高次の段階に高めて、新しい調和と秩序のもとに統一すること”。
weblio辞書では、”ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいう。
(哲学) あるものを否定しつつも全面的に捨て去るのではなく、積極的な要素を保存しより高い段階で生かすこと。
ある物がその反対な物と統合してはじめてそれは止揚されたといえる。”


BhagavadGītā Chapter.4 

「私たちがこの章の前の部分で、人がたとえ行いをしていようが、全てがブランマンであり、いかにカルターが否定されるのかを見てきました。

brahmārpaṇaṃ brahmahaviḥ brahmāgnau brahmaṇā hutam
brahmaiva tena gantavyaṃ brahmakarmasamādhinā.B-G4-24
捧げ物をする道具はブランマン。ブランマンである火の中に、ブランマンによってブランマンである捧げ物が捧げられる。このように行いにまつわる全てのカーラカはブランマンであると見えている人によって、ブランマンはまさに到達されなければなりません。

他のカーラカ、行いの対象、行いの道具、行いの目的、行いが始まる場所、行いが起こる場所は全てカルターと共に無効にされます。たとえ、カーラカはまるでそこにあるように見えても、カーラカたちとブランマンの間の分裂があるという主張が否定されることで、カーラカたちのリアリティは無効にされます。この否定は、止揚(しよう)と呼ばれます。つまり、何一つ分裂がないことを見て、あるがままに分裂のリアリティを止揚することです。

We have seen earlier in this chapter how, even one performs karma, the kartā is negated, everything being Brahman —— brahmārpaṇaṃ brahmahaviḥ brahmāgnau brahmaṇā hutam. The action comes, and the location in which the action takes place, are all nullified along with the kartā. Even though the kārakas are seemingly there, their reality is nullified by negating the contention that there are divisions between them and Brahman. This negation is called sublation —— sublating the reality of division as such, seeing that there is no division whatsoever.」1)

Vedāntaで言われるnegation 否定は、このsublation 止揚を手法としています。より高次のものを示した上で低次を否定し、最終的に統合することで全ては一つであることを理解させる逆説的手法です。

つまり、移り変わる質・ミッテャーであるアナートマー(アートマーではない)、行い手の観念・カルターは真実ではなく(低次)、ブランマン、アートマー(自分自身)である行い手ではないアカルターが真実(高次)であり、そのブランマン、アートマー、アカルターに統合されるのが、ミッテャー、アナートマー、カルターであり、その両者を統合した結果としてワンネス、この宇宙はたった一つのブランマンであり、ミッテャーもブランマン、ありとあらゆるものがブランマン、自分自身・アートマーであると結論づけることができます。

ここを正しく理解せずにヴェーダーンタを教えている人たちがたくさんいます。その人たちがしていることは、人が信念を持って取り組んでいるものや、その人が価値を持っていることに対して否定と非難することを徹底的にしています。自分のしていることが好きで喜びになっているという人に怒りで否定し怒鳴りつける人もいますし、嫉妬から怒りになっている自分の不幸を相手に投影して、幸せな人がモークシャを理解することを妨げてしまいます。それは全く真実を理解していない行為であり、人を傷つける暴力・ヒムサーと同じアダルマです。
道徳観や倫理観を正しく持てていれば理解できる常識的な考えだと思いますが、スワミダヤーナンダジも人が信念を持っている価値に対して否定や侮辱することは暴力と同じであると教えています。あるがままに物事が見えていないが故にそうなっています。
いくら言葉を覚えても、正しく物事を見ることができていなければ、いつまでもその人の見ているものはプラーティバーシカ・主観的なリアリティであり、間違いを重ねて見ている無知は続きます。

物事を概念化して共通項や類似性を見出し結論付けて応用する帰納法(論理的思考)が難しいため、想像力に欠け相手の立場や人の気持ちに共感的になることができず、一方的な間違った見え方をそこにあるものに重ねて怒りになる人たちです。

パーラマールティカ・正しく真実を理解している人は、全ては愛と慈しみであり法則・イーシュヴァラであることを理解し、物事を客観的なリアリティ、ヴャーヴァハーリカからあるがままに世界を見ているので、negation 否定の使い方も必要なところで必要な人に使います。このnegation 否定は非難や批判とは違い、差し引く、打ち消す、無効にすると言う、辞書で引く正しい意味です。

アンタッカラナ・シュッディ(考えの浄化)のために貢献者として与える行為に対して非難することなく、結果への執着を識別しヴァーラーギャできるように教え、聖典の知識に基づくダルマをストゥティ・称賛し、それに反するアダルマをニンダー・非難していきます。

自己イメージが低いと、違う意味を上乗せして捉え自己非難をしてしまい、自分に対する怒りや憎しみを聖典の言葉に重ねて非難されたと捉え、自己否定している自分が自分で傷つかないように回避的な防御行動として衝動的な言動、態度をしてしまいます。
言葉の意味を上乗せせずに、正しく理解する知性が大切です。そのために、長年に渡りヴェーダを学びながらカルマ・ヨーガの生き方の中で、ダルマ・全体宇宙に調和した行いに専心する必要があります。

サッテャン・真実を理解させるためにミッテャー・あるでもなくないでもない移り変わる始まりがあって終わりがあるものを完全に否定していきます。捉えているもの全て、考えも感覚器官も肉体も、周りの人々も起こる事象も環境も、過去も未来も、天国も地獄も、ブランマーもヴィシュヌもシヴァもデーヴァターも、時間も空間も五大要素も、地球も宇宙もマーヤーも全て、法則も秩序も抽象的概念も移り変わる対象物、それらはミッテャー、客体であり、サッテャンである自分自身ではないことを理解させるために否定します。
そして、何もなくなってしまったように思うのは、自分自身は自分で捉えることのできないサッテャン、大きさも形もない、限りのない存在だからです。
移り変わることなく常にあるものが時間と空間を超えた永遠であり、質のないものは捉えようもない、何にも影響されることのない真実です。
それに、ありとあらゆるものが依存しています。

そのあなたが、常に輝いている一点曇りもない光の主体であり、自分ではなく対象物である考えと感覚器官と肉体の複合物を道具として心を使い世界を認識し、この世界の全てに自分を反射させて捉えている客体であると理解し、そこに遍く満ち満ちている全ての基盤になっている意識、ブランマンが何にも頼らず自立した存在である自分自身であり完全であることを理解します。そうすると自分自身が反射しているその対象物も遍く自分自身、ミッテャーもサッテャン、たった一つの自分自身、何もかもが意識・ブランマンであると理解するのです。

何よりも一番価値があるものは真実の自分自身を知ること、モークシャを得ることが最優先になり、永遠で限りのない移り変わることのない幸せな存在が自分であることを理解することです。それに専心して行いをすることによりアンタッカラナ・シュッディ・考えは浄化され、知識を得てモークシャは叶うことを教え、ミッテャーの中には一番欲しいものはなく、最も大切なものは移り変わらない自分自身、ブランマンである主体を理解し、ミッテャーに依存することなく、何にも頼らず自立した幸せな存在である自分自身に落ち着き、移り変わらない喜びと満足、幸せが自分自身であることを理解させるために否定していきます。

カルマ・ヨーガの生き方を通してダルマに専心でき、考えが成熟した人に対して適切なタイミングで、ミッテャーを全て否定し、残るものはサッテャン、真実であり、自分自身は捉えられない主体であることを理解させ、そして最後にサッテャンとミッテャーを統合して、あらゆる全てがサッテャンであることが完全に理解できたらモークシャの完成です。

引用文献: 1)Teachings of Swami Dayananda, BHAGAVAD GĪTĀ VOLUME 4 P237.
 

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