KAMALA YOGA BLOG

心とは

<心について>

<生徒要約>

・心とは意識が最も意識らしく現れる場所

意識とは全体意識、全てに遍く満ちている意識であり、jīvātmāが私だと捉えている肉体にも満ちている。しかしjīvātmāはその意識を捉えることが出来ず、反射された意識・cidābhāsaを、その心と体の複合体を介して認識する。

cidābhāsaは常にそこにあり、体全体を生き生きとさせ、感覚をもたらすものである。cidābhāsaは二つに分けられ、sāmānya cidābhāsaは起きている状態、夢の状態、眠りの状態のいずれの時も体全体に満ちている。もう一つはviśeṣa cidābhāsaで、こちらは起きている状態の時のみ感覚器官の後ろに現れ、何かを知覚する、もしくは知覚するものが無いことを知る。二つのcidābhāsaは離れておらず、viśeṣa cidābhāsaが現れていない時は、sāmānya cidābhāsaに溶け込んでいる。

viśeṣa cidābhāsaが現れるのはスークシュマ(微細)な感覚器官の後ろであり、例えば何かの音をよく聞くために、目を閉じたり、全身を傾けて聞くことがある。この時、viśeṣa cidābhāsaが感覚器官であるスークシュマな耳に現れ、感覚器官で捉えたものを基に知的器官であるマナス、ブッディ、アハンカーラ、チッタがはたらく。このように意識が意識らしく現れる場所をマインド、心と呼ぶ。解説の中ではマナスやブッディという言葉だけを使って心と言われることもあるので、全体の文脈の中で理解することが大事である。

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生徒

今日のお話で一般的に人が話す【心】とは情動、マナスを指すことが多く、ヴェーダーンタの言う【心】とは全くちがうことが明確になりました。

ヴェーダーンタでの【心】とは認識のこと。愛、やさしさ、思いやり。意識が意識らしく現れた光の反射である。全てにあまねくみちみちていることなのですね。

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回答

マナスとブッディの使い分けも正しく理解していきましょう。

しかし、マインド・心と言っている時には、ブッディの意味の時もあれば、そこに現れたマナスが邪魔をすることを意味している時もあります。

言葉を文章の中で全て説明すると、それだけでも長くなりますので、省略している場合も多いですよね。文脈から隠された言葉の定義や意味を読み取らなければなりません。それはどのような文章でも同じです。

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生徒

ヴェーダーンタで言う「心」とは、人間が本来持っている優しさ、愛、慈悲、思いやりの心。意識である光が反射した、意識が意識らしく現れて認識する場所のことを心という。

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回答

認識が起こる場所が心です。

人が何かを捉えた時に、何かを思ったり好きや嫌いという感覚が起こるとしたら、チッタ、過去の記憶を通してこれはこうだと結論づけるブッディが働き、嫌悪や舞い上がる感情はマナスが働いています。

それがなかったとしたら、ただ見ている、ただ捉えている、ただそれがある、ないと認識しているだけの人がいますよね。それがアートマーです。

そこに色々と考えが現れてくるのを眺めている人です。

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生徒

「心」の言葉の意味についてのお話がとても印象的でした。理解できているかどうかわからないので確認させてください。

「心」(heart)とは、人間が本来持っている優しさ思いやり、愛という意味。意識である愛そのものの自分自身が、綺麗に現れれる場所が心であり、それを認識しているのが心。

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回答

意識が綺麗に現れる場所が心であり、認識が起こる場所であり、それを認識しているのがアートマー・自分自身です。

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生徒

心は本来愛で溢れているが、揺れ動く感情を私と思う間違いによって、心が感情だと勘違いしてしまう。その歪みを識別してく必要がある。

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回答

心を感情だと勘違いしてしまうのは、誰でもこの知識がなければあります。それ自体は歪みではありません。

歪みというのは、本来の優しさや思いやり、愛と慈悲で認識して考え行動するのがダルマであり正常であるのに対して、憎しみや嫌悪、嫉妬や怒り、自己否定で捉え行動することが歪みです。相手や世の中が悪いものに見えるのは、その人自身の考えに歪みがあり、その歪みが心に映るからです。

「स य एतमेवमुपास्ते प्रतिरूपं हैवैनमुपगच्छति नाप्रतिरूपम् अथो प्रतिरूपोऽस्माज्जायते ॥ ८ ॥
sa ya etam-evamupāste pratirūpaṃ haivainamupagacchati, nāpratirūpam, atho pratirūpo’smājjāyate II
bṛhadāraṇyaka upaniṣad [2.1.8] P134

水はどのようなものも覗き込むと反射を生み出します。その反射は自分自身です。自分と反射は常に一致しています。あなたの元の顔と映し出された顔は、常に一致しています。ですから、水はあなたと一致するものを与えてくれます。それはpratirūpaviśiṣṭaḥ jalarūpaḥと呼ばれています。私たちの人生にやってくるすべての人々は、常に一致、和合することになるのです。ですから、ウパーサナをすることで、喧嘩や不仲を繰り返して人生を地獄に陥れるような夫婦とは違って、この人はどこに行っても、自分と相性の良い人たちと一緒に過ごすことができます。だから、pratirūpaṃ haiva enam upagacchati  彼の人生に来る人は誰でも、それは会社の同僚かもしれないし上司かもしれないし、彼が独身なら来る配偶者も、彼はすべての人と摩擦がないことに気づくでしょう。」

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生徒

意識と心の違いとは、意識は認識している人、全てに満ち満ちているけれど、意識だけでは認識できない。本来の心、歪みのとれた心によってあまねく満ち満ちた意識が認識される。

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回答

意識だけでは認識する機能はないですね。また、自分自身である意識を認識することはできません。

歪みが修正された考えには、あまねくこの宇宙全体に満ち満ちている限りのない存在で、全てを支えている基盤である意識と心が一つになって、その私の中に全てが現れて、知っていることも知らないことも認識している。その現れたもの全てに認識があるということは私の心が満ち満ちている、それがイーシュヴァラであり自分自身と理解できます。

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生徒

その心(考え)が世界を作っている、現れた世界の結果、自分の心が捉えた(考えの)結果の世界を生きている。

その考えがサットヴァであればあるほど、イーシュワラがイーシュワラらしく現れた世界をアートマーは眺めることができる。のでしょうか。

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回答

そうです。

心の中に知性 ブッディ、感情・情動 マナス、記憶 チッタ、私観念 アハンカーラ、総称して考えが現れるので、まるで制限された個人に思えてしまっています。

そこには、チッタ 記憶が重なり、私はこうだというアハンカーラ 私観念があるために他との違いを作り出し、あの人はこうだ、これはこうだというブッディ 結論があり、それによって様々なマナス 感情として揺れ動くのを認識していますよね。

そのチッタ、アハンカーラ、ブッディ、マナスに汚れ、間違いといった歪みが生じて、あるがままに法則や秩序を見ていないから偏見が重なり、人と人が分かれているように思えたり、感情的、衝動的になってしまうのです。まるで心が分かれているように捉えてしまいます。

ですから、その心をイーシュヴァラに向けるよう専心して祈りを続け、社会貢献としてイーシュヴァラに捧げる行いをして、イーシュヴァラから与えられている物事に素直に喜べる純粋さを顕し、今まで作り出してきた考えによって隔たりになっている心を浄化していく必要があるのです。

cidābhāsaとは反射された意識 P44

①sāmānya cidābhāsa

②viśeṣa cidābhāsa

「 このcidābhāsaは、sāmānya cidābhāsaとviśeṣa cidābhāsaに分けられます。sāmānya cidābhāsaは、身体全体を生き生きとさせ、感覚をもたらすもので、常にそこに存在します。深い眠りについているときでさえ、sāmānya cidābhāsaはそこにあります。しかし、viśeṣa cidābhāsaは、周囲の環境を認識させるものです。そのおかげで、あなたは周りを認識することができるのです。このviśeṣa cidābhāsaはjāgrat avasthā・起きている状態にのみ存在するのです。」

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生徒

心があるから認識が起きて、体があるから心と体の複合体として機能する。ジーヴァートマーはこれまでその間違い、体は私ではない、考えは私ではない、などを指摘されてばかりという印象だったのですが、ジーヴァが映し出すから世界を認識できることは、凄いことですよね。その間違いは正しながら、映し出す世界を穏やかに楽しめば良いのだなと思いました。

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回答

そうなのです。前半はどうしても体や考えを私としているジーヴァ・個人と、意識であるアートマー・自分自身との識別が難しい人が多いので、しばらくその私ではないものをずっと見て識別を促していくことが続くのです。

しかし、その時に肝心なことは、24の機能にそれぞれのデーヴァターが働いていることを見ていき、この体にも今現れている物事の全てにもデーヴァターが働いていることを理解していくことが大切なのです。

ですから、生理学や解剖学と生態学とをつなげ、それぞれのデーヴァターも働いていることをお話ししているのです。この体を自分として見ていることから、神々が働いて機能しているからこそ知らないうちに細胞修復され、免疫機能が働き、心臓が動き呼吸を続けてくれている、その体に感謝をして神・意識である自分自身が最も意識らしく現れた意識的な存在となるのです。

それで全てがイーシュヴァラに見えたら、あとは最後の結論が知識として得られればモークシャが叶うのです。

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生徒

体を私だとする勘違いは正さないといけませんが、体の驚くほど精密な機能は神々がはたらいてくれているのだと知り、感謝し、体を大事にしたいですね。24の機能にデーヴァターのはたらきを見ることも、ちょうどタットヴァボーダの勉強会もありますし、皆さんと理解を深めたいです。

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回答

それがなかなか理解されずに教えていたりSNSで発信している人たちも多いので、ダルマを教えても道徳観の押し付けだと捉えたり、体や考えではないということだけ知っても、勘違いを生み出し、やはり犯罪や精神疾患の助長になってしまうと感じます。本当に理解していたら自然とダルマに調和することが心地良く道徳的になり、生きとし生けるもののために貢献して生きています。

どうしても色々説明しても全てが記憶に止まるわけではありませんから、何度も繰り返し聞いて、自分では気づけない間違いを教えてくれる人によって気づいて言動や行動を修正していき、この体こそが純粋意識としてイーシュヴァラである自分自身が現れるテンプルであることを理解し、外側のように見える出来事も人々も生きとし生けるものも同じイーシュヴァラであり、全てがたった一人の自分自身であることを理解し、賢者としてイーシュヴァラらしく社会に貢献し生きていくのです。

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生徒

体はテンプル!お祈りの言葉で言っていたことを思い出しました。こうして言葉の意味が少しずつ理解できてくるのも、とても嬉しいです。ありがとうございます。

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Bṛihadāranyaka Upaniṣad by paramārthānanda p696

「ひとたびātma kāmaḥアートマー・自分自身への願望になれば、私たちの人生はもはやカルマ・行いを目的としたものではなくなります。それは、jñānaṃ・知識を探求する旅となります。śravaṇa聖典の教えに耳を傾けmanana分析的思考nididhyāsanaṃ熟考することは旅です。karmakāṇda(聖典の前半、行いについて)は無関係になり、jñānakāṇda(聖典の後半、知識について)のみが道しるべとなり、”私は誰なのか”という問いが関連性を持つようになります。私たちは、”sa eṣa neti netyātmā”というように、一つずつ徐々にアナートマー・私ではないものを否定していきます。あるいは、”dehātmabhāva→jīvātmabhāva→paramātmabhāva→sarvātmabhāva”が探求者の旅となります。「私は肉体である」というのが始まりです。そこから、私たちは反射された意識に到達します。これが内なる旅です。アートマに到達すると、”このアートマーだけが、あらゆるものの形となって現れている”ことを理解します。 これをsarvātmabhāvaḥと呼びます。」

意識と心を火に喩える p45

「私たちはsāmānya caitanyamに至らなければなりません。聖典によれば、”火”は五大要素pañcabhūtāsの一つとして全てに行き渡る法則です。五大要素の一つとして、火はすべてに浸透しています。

実際、夏に私たちが汗をかくとき、大気全体がagni tattva・火の本質に浸透しているからこそ、私たちは汗をかくのです。しかし、それはavyakta(姿形ないもの)です。火は、炎などの特定の形を持っていません。その炎はviśeṣa ākāra(全ての事象や姿形として現れたもの)になりますが、sāmānya rūpeṇa(通常の姿形)ではagniḥ sarvatra vartate(全てに行き渡る火)になります。そして、このagniは木の丸太の中でも利用することができます。ですから、私たちは丸太を薪として使って燃やします。そして、yāga(儀式)では、火を起こそうとするとき、araṇiとsamīvṛkṣaḥという2本の木の丸太を使いますが、これはsamīの木とaśvattaの木の2種類の木から取ったものです。1本は下にあるaraṇiで地面に固定され、真ん中にくぼみがあります。もう一つは、上のaraṇiで、下のaraṇiのくぼみに入るような棒のようなものです。そこで、上の棒を下のくぼみの中に入れて撹拌すると、agniが発生するのです。」

引用文献:Bṛihadāranyaka Upaniṣad by paramārthānanda

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