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意識はたった一つというのは罪を犯す人も同じ意識でモークシャを得られるのでしょうか

ヴェーダーンタ勉強会での質問に対する回答

Q .自分と犯罪者が同じ意識だと言う事に抵抗を感じます。犯罪者も何らかのきっかけで、この知識を得ると変わる事ができる、モークシャーを得られるのでしょうか?

A .意識とは、たった一つしかありません。すべての人も虫も動物も魚も微生物も、ポットも土も原子も素粒子も空間も何もかもがたった一つの意識です。意識はあまねく全てに行き渡る存在であり、移り変わる質を持っていないため、移り変わる質でさえも意識に頼って存在しているため、意識でないものはありません。

無知という隠す力が働いて、個人の記憶が重なり思考が現れては消えていきます。

何度もお伝えしていますが、感覚器官から得た情報により記憶が作られ、また感覚器官が得た情報に記憶が重なり、推論が働き思考が動く、というのが大まかな認知のプロセスですが、過去の体験により歪みが生じると、あるがままに物事を見ることができずに推論が間違ってしまうがゆえに、自分観と世界観に間違いを重ねて見てしまいます。

それにより、劣等感や自己否定、誇大感や見下す、コンプレックスなどが生じることによって、あるがままのことが見えずにダルマを選べなくなります。

アダルマな行いをする人に対して、個人の主観的な偏見を重ねて見ているのが一般的な見え方です。

その行動と人の本質の間に歪みがあるという客観的なものの見方をすることが成熟した人です。

そういう見え方の人がアダルマな行いをする人に対して、時に優しさや人情を垣間見せることによって、改心しようと思える人もいますよね。

だからと言って何をしても良いということではありません。

罪を犯したら罰せられるのは当然のことですし、一番自分自身がよく知っています。

子育てでも教育でも、間違っていることをそのままにしていては、気付けずにいつまでも間違いを繰り返してしまいます。

間違いは教えてあげて、怒りで感情的にものを言うのではなく冷静に伝え、誰もが本質は優しく慈しみであり愛であることを教え、良い方向へ導いてあげることが大切です。

また、アダルマをする人であっても、人は全て同じ優しさや思いやり、愛そのものが本質なのだということを知れば、その人の生い立ちにそうさせる体験があり、その認知のプロセスで記憶が作られているということを理解し、あるがままに見ることができれば生き方も変わっていきます。

犯罪者に対する嫌悪感は、個人の見え方による偏見になります。もちろん、罪を犯してはいけませんし、人を傷つけてはいけないのが前提ですが、アダルマをしてしまう人を理解するように努めると良いですよ。

そういう人たちがいるから、そうしてはいけないことに気付けますし、その人たちもそうされたくないという相手の立場になってみる想像力を身につけていくことによって気付くことができますし(中には難しい人も多くいますが)、何より自分自身が一番気付いていますから、その結果はいつしか自分に実ることを知り気付いて変われば、ダルマを選べるようになります。その人も同じイーシュヴァラですからね。

盗賊でも聖者に出会いマントラを繰り返し祈り続けて変われるお話は、ラーマーヤナ文献からもしています。

アメリカの刑務所で犬を飼育しながら愛情などが芽生え、受刑者も犬も共に成長していくプログラムや、日本でも女子刑務所で保健師や助産師が道徳や愛を教え自立を促す更生プログラムもあります。

スワミダヤーナンダジも刑務所でヴェーダーンタをお話しすることもされていたそうです。

行いの結果が返ってきて、痛みを持って気付いていくこともあるでしょう。

悪いことした人を排除しようとするのではなく、自分観と世界観の歪んだ見え方を識別して、あるがままに正しく見ることができるよう、更生や自立できるように手助け、支え、与えることをする立場になれると良いですね。

また反対に、いくら道徳的なことを教えている人でも、視野の狭さで個人的な小さなエリアの主観を重ねて人を非難する人もいますし、それが人を傷つけていることに気付けなければいつまでもアダルマを続けてしまいます。

怒りの感情のままに行動し続けていることが理解を妨げていることに気付けずにいる人もいます。

スワミダヤーナンダジは、人に偏見を重ねて非難する生徒にはきちんと怒り注意し教えていたそうですが、教えてあげる人が居ずに誰も気付かせてあげられなくなってしまうと、いつまでもアダルマを繰り返し、理解の妨げになってしまいます。

理解なしにヴェーダーンタを教えている方が、こんな話をしていました。

「殺人罪で追われているから助けて欲しいという人が家に来て、自分は罪を犯していなないから匿って欲しいと懇願された時、皆さんならどうしますか?」という質問で、色々な意見が出ましたが、その方は、「皆んな答えが違う、人それぞれダルマが違う」ということを話されていましたが、ダルマまで曖昧になってしまうのですね。教わっている人も迷子になってしまいます。そのような人は、その場で説明してもまた怒りになり話を聞けません。

基本的には刑法第103条で、犯人隠匿は罪であり罰せられます。ダルマが分からない時は法律に従うのが初歩的なダルマの選択です。いざという時には絶対ではない時もあり、イーシュヴァラが結果を与えることを理解しつつ、まずは自分がアダルマを選択しないように、逃げて助けを求める人が罪を犯していないというなら、逃げも隠れもする必要はなく、正々堂々と事実を話すように自首することを促し説得して、通報するのがダルマの選択かと思います。

情や恐れなどの感情で判断するがために全体に対してアダルマを選択してしまうことが、バガヴァッドギーターのイントロダクションの中でたくさんの登場人物の背景で描写されていますが、目先のことや利己的な選択でアダルマを選んでしまいがちです。先代との約束や子供が世話になっているからなどの理由によって、ダルマであるアルジュナに着かずに、アダルマなドゥルヨーダナに味方することが、結果的にアダルマになっていることがずっと言われています。

主観的な狭い視野で物事を見ていると、一見、尊敬する人との約束や子どもへの愛着などでダルマに思えることでも、客観的で広い視野を持って先々を考えて見ればアダルマになるということが分からず、何がダルマなのかさえ見抜けません。

人によってダルマは違うというのは、カトーパニシャッドの中で、ナチケータスがヤマに会いに行った時、留守で奥さんしかいなかったため3日3晩飲まず食わずで座りもせずに待ち続けるのがダルマで、ヤマに対して周りが、「ブラフマナ(教えを学び伝える人)を怒らせたら大変なことです。これまでに儀式や祈り、社会貢献で得た高徳を破壊できる力を持つと言われています。無礼を働いた家主に対し、夢も希望も破壊し全ての財産を破壊するので、本当に恐ろしいのですよ。ブラフマナのお客さんを大事にしなければ、あなたはもっと大事なものを全て失います。だから急いで無礼を詫びて、誠意と敬意を示すために今すぐ駆けつけて下さい」という描写の中で、ナチケータスとヤマのどちらもダルマに従った結果、どちらが良いも悪いでもないということです。

また、高い技術や能力を持った人が、後回しにできる掃除などができないからと言ってアダルマなわけではなく、その人それぞれのやるべきことが違い、役割や能力も違えばやるべきことの優先順位も変わります。

ダルマとダルマは人それぞれ違いますが、ダルマとアダルマはイーシュヴァラから見れば明確に異なります。

人それぞれのダルマが違うと言うのは立場や役割によって違うという意味であり、アルジュナの立場ではダルマを取り戻さなければならない立場でありながら、情に流されて悲しみで戦えずに震えている時に、クリシュナが戦うように叱咤激励しているのは、例えば、司法に関わる人が凶悪犯に対して情けで死刑宣告できなかったり、悲しみで死刑執行できなければ、犯罪者が罪を深く反省することもできなくなる可能性があります。

理解する知性に歪みが生じ、個人の都合の良いように解釈する人が勘違いして、無秩序に人を傷付け罪を犯し自分を正当化し、アダルマを積み重ねていく場合もあります。

ですから、ダルマを選択し続ける知性が必要なのです。

もし捕まらずに罪を罰せられなかったとしても、自分が一番よく知っているのですから、その行動が自分への祈りとなり自分のアダルマに気付かない限り、一生どころか来世もアダルマな人生が繰り返され続いていくのです。

しかし、誰もが法律家ではありませんし、自分のしている一つ一つの行いが罪に問われるかどうかが分からないこともありますが、一つでも今知ったことは覚えておけば、もしそのような場面に出会したら、迷わず決断できるようになりますよね。

学校や会社、社会のルールや法律などの秩序は、現れたイーシュヴァラです。

バガヴァッドギーターに書かれていることは、今までダルマに生きてきた人には当たり前のことばかりですが、そうでない歪んだものの見え方をしてきた方にとっては理解が難しいようですし、自由の意味を履き違えて、学校も行かず社会のルールに反発し好きなことをして生きることが自由だと思っている人もいます。

やるべきことをやらないことも、アダルマになります。

ラマナマハリシのように、すでに人生に見極めがついている人が子供の頃に社会から退いてモークシャだけを求めて最後の人生を送る人もいますが、とても稀な聖者ですので、好き嫌いで行動してドロップアウトするのとは違います。

ヴェーダーンタの伝統やシャンカラの言葉をお話しすると、「馬鹿にしてる、傲慢だ、私の知ってる先生とは違う、あなたは完璧ではない」など、怒りで話を遮り聞くことさえできず、約束事すら守れず物事の良し悪しの分別も付かず好き嫌いで選択し、伝統の教えと方法を自分のやり方に変えようとする人が、「私はヨーガの先生ですから」とダルマに反して人を傷付けてでも感情のまま行動することが自由だと思っている人が、「ヴェーダーンタでは・・・」と語り出してしまいます。

ヨガの先生というのは様々で、ダルマに生きてきた人や、医師や助産師など人の生死と心や体に対する専門知識を有してヨーガを教える人もいますが、医師が先生と呼ばれるまでには大学6年、研修医4年以上は最低限必要です。しかし、特に学歴も教養もキャリアも関係なく、言葉の理解が乏しくても今日からヨガの先生です!と自称すればなれますし、短期間のトレーニングだけで先生と呼ばれるようになり、中には勘違いする人もいます。

ヨーガの先生なら、心の波を死滅させることというのが、ヨーガ・スートラでもヨーガとは何かが言われていますので、まずそれくらいは理解し実践していて欲しいものです。

シャマ・考えの統制とダマ・感覚器官を統制をし、好き嫌いも心地よいも悪いも同じに受け入れられ、逃げずにやるべきことに止まり冷静に判断することが人生のゴールを理解するための資質ですし、社会生活の中で自分の間違いに気付いて冷静に客観的に物事を見て、全体であるイーシュヴァラを理解していくことがヨーガの生き方です。

ヴェーダーンタ以前に、人としても自分の心の波を観察して鎮めることを練習していくことが必要ですね。

また、ヴェーダーンタ以上のゴールがないのは真実ですが、社会に対してあまりにも世間知らずだと、それ以外のものを受け入れられず、間違いにしてしまったり見下す人もいます。相手よりも自分の方が優れていると見せつけたくて、高圧的な態度を取ったり、自分がしていることが一番凄いのだと驕り高ぶり、相手を認められずに否定や非難するのも、自分が自分を認められていない歪んだ自分観を世界に投影しているからです。

どれだけ真実を話していていも、周りを認められず驕り高ぶった態度では、素晴らしい教えも残念なものになってしまいます。

ヴェーダーンタを理解するまでには様々なレベルの人がいて、それぞれに合った方法で人の成長を促すことは必要であり、社会の中ではそれを支える人たちもたくさんいます。

もちろん、間違っているものは違いますし、それを正しい方向に注意する事は大切です。しかし、高慢さゆえに偏見を重ねて批判的になるのは、アダルマです。

アダルマを注意しなければその人は自分のしていることがアダルマだと気付けません。

いつまでも気が付けずに、誰からも注意されることもなくなり、そのまま進んでいては、本当の自由はありません。

自分で気付けず誰も教えてあげられず間違ったまま進んでしまうと、また誰かを傷つけ、その人にとってもアダルマに進むだけですし、気付いて自由になる方向に進めるように、理解している人が教えることが必要です。

理解なしに教える人が多くいる中で、盲目に信じる人も多く、その人たちに対して自分の発言が絶対的な影響力を及ぼし、人を批判している人の周りにいる人も批判的な人が多くなり、怒りで行動する人の周りも同じように怒りになり、好き嫌いで偏った行動を取る人の周りにはそれが自由だと思い好き嫌いで行動するようになることを知る必要があります。

理解していなくても教えている人の周りに同じ理解力の人同士が集まるのは、自分の理解に共感や同意を得られるから居心地が良いので、教えている人のレベルまでは成長しますが、それ以上の理解は、教えている人が理解していない事は正しくても間違っていることにされ、怒りなどで抑え込まれてしまうので、本当の理解は難しくなってしまいます。

バガヴァッドギーターは読めばわかるとgita Vol.1でも言われていますが、感情のままに怒りで行動する人は、いくら言ってもまた怒りになり理解を妨げていることに気がつけずにいるので、識別は難しいのでしょうね。

あなたからすればこうだし、あの人から見たらこうだし、ここで見れば違うけれど、イーシュヴァラから見たらどうなのかという客観的な視点が判断材料になると良いですね。

歪んだ考えから自由になることがまず必要ですから、自分で気付いていかない限り、人生のゴールを成し遂げたとは言えません。

人生のゴールを成し遂げる人は、すでに嫉妬や怒りは解決していて、偏見を重ねることなく何事にも公平な目で見ることができる人です。(Bhagavad gita Vol.18)

個人の癖は残りますが、個人の間違った解釈で真実を都合良く変えてしまわないように気をつけなければなれません。

教える人の定義も、明確に理解している人であり、且つ伝統の方法論と方法を持っている人と示されています。(gita Vol.1)

盲目(理解していない人)が盲目を導くこと(gita Vol.2)をよく理解し、教えない努力も大切ですね。

私たちは、大きな犯罪ではなくても、ついうっかり、魔がさした、知らなかったなどで日常的に小さなアダルマを繰り返してしまいます。気付かずにアダルマを選んでしまっていることもたくさんあります。その結果がいつしか自分自身に実りますので、痛み苦しみとして返ってこないためにも、祈りは絶大な効果をもたらします。

人を助け、そのために努力して行動することは祈りになります。その結果がイーシュヴァラからの恩恵として実っていきます。

ですから日常的にダルマを選び続け行動することが大切なのです。

自由意思を使える人間だにだけ、優しさや思いやり、慈しみでダルマを選択することができます。しかし、そ自由意思を自由に使ってアダルマを選択する人が多くなれば、全体の秩序は保たれなくなります。

社会のルールに従って秩序の中で抗わずに調和していることが、まずは初歩的なダルマです。それに従い続けて、あれが嫌だこっちがいいとか、めんどくさい、やりたくないなど、そういう思考の癖からも自由になり、ダルマに沿い続けた結果、どうにもならない時があり、イーシュヴァラに委ねることを理解していくのです。

やると決めたらやるだけですが、そこにできない言い訳をする人が現れるのは、考えと行動の間に分裂が生じているからです。(gita Vol.1)

ヴェーダの儀式の所作は、事細かく決まっていて、こうしなければ反対の働きをするとも言われています。

それを続けていくことで、自分の歪んだ思考の癖から自由になり、好き嫌い、感情で選択することからも自由になるのです。

その人の行動がアダルマなことは罪であり償いが必要ですが、本質との間の歪みに気付いていくことで、アダルマに気付いていくことができ、誰もが移り変わりのない愛そのものであることを知るのですね。

人は、気がついた時から変われます。

気が付いて認識を変えていけば、物事をあるがままに見ることができるようになっていきます。

しかし、人間の思考の癖は強固なものがありますので、行動変容に移すためには相当な努力が必要です。

今までの生き方がアダルマな人は、何がダルマなのかもわからないため、ダルマに導いてくれる指導者が必要です。

毎日毎日、慎重にダルマを選択し続ける努力をしなければ、行動はなかなか変われるものではありません。一度怠れば、すぐに堕落してしまうのが人間の浅はかさです。

モークシャを目指すためにダルマを選択し続けるわけですから、主観的な間違いを識別することは常に心がけていたいものですね。

人間、知らないことはたくさんありますし、未熟で無知な時にはたくさんのアダルマをしてしまうものです。

人を赦す心を持っていなければ、自分を赦すこともできなくなります。

人は大なり小なり、主観的な間違いを重ねて偏見で物事を見ては、悲しみや怒りで暴力や批判、罵倒や文句、悪口や嫌がらせなどをして人を傷付けることがてきる生き物です。

罪に問われなくても、アダルマを積み重ねれば、いずれ自分に矢を報いる結果となります。

痛みや苦しみとして返ってこないと、なかなか気付けないものです。

知らなければいつまでも自分を正当化して、相手を悪くします。

自分の見える記憶の投影された世界の中で、狭い視野で見ることから自由になることが、ヴァイラーギャ・公平な冷静さです。

結局、あなたが認識しているもの全ては、あなた自身ですからね。。。

徹底的にダルマに沿った上で、どうにもならないこともあると理解し、イーシュヴァラに委ね、やるべきことをこなして、自分の歪んだ考えから自由になり、この宇宙全体が理解できて本当の自由があり、人生のゴールを成し遂げるのです。

意識は移り変わることなく全てにあまねく満ち足りている存在ですが、行動や考えは移り変わるものですから、識別をし続けてイーシュヴァラに捧げられる祈りのある行いと、イーシュヴァラから与えられる恩恵の中で過ごせるように、常にダルマを選択できますように。

人間は完璧ではありませんので、互いに間違っているところは気を付け合いながら、人生のゴールを目指していきたいですね。

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