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移り変わる愛のアーバーサと愛の本質

移り変わる愛のアーバーサと愛の本質

ヴェーダーンタ勉強会九十九里で学ばれている皆様が、色々な考えを曝け出し明け渡しながら言葉を吸収しています。

日々の祈りと瞑想、識別をする中で、自分の嫉妬で人が輝いて見えて羨ましくなり苦しくなる時や、理不尽な怒りや批判や態度で傷つく時も、自分の中の子供が爆発して大切な人を傷付けてしまいそうで辛くなる時も、全てはアーナンダのあなたに現れては消え、移り変わっていく愛のアーバーサであり、それを見ている人ということを忘れずにいられますように、いつもお祈りをしています。

海に現れては消える波のように、それも全てが水であるように。

アーナンダはbliss至福と訳す人も多いですが、伝統の教えではhappiness幸福、満足、喜び、幸運、幸せと訳されています。

幸せな自分自身は至るものではなく、元々幸せな存在なので、考えればその通りですね。

そして、この意味をしっかりと理解できるように、Brihadaranyaka Upaniśadを引用したテキストを毎日毎日読み、日々瞑想を続けて頂いています。

自分の感情気分が揺れ動く時もあれば、他者からの理不尽な批判や怒りや文句もあります。

人それぞれの体験を通した記憶が上乗せされて、様々な捉え方があります。

自分を受け入れられず認められず好きになれないことが、人を嫌って避けたり悪口や批判になります。

与えられている役割に不満ばかりになるのも、自分への不満があるからです。

自己受容できて自分を認めて好きになれば、やっていることも好きで楽しくなります。

自分を尊く思えれば、周りにいる人も尊く思えます。

人を愛するのは自分を愛するため。

あなたは移り変わることのない愛そのもの、アーナンダ。

と言うと長年勉強していても怒りになる人たちがいるクラスを体験したことがありますが、その人にはインドのスワミジの通訳もおかしく聞こえ、スワミジの言葉も違う人が話すと間違いに聞こえ、その人から学んでいる人は伝統の中で教えている他の先生の言葉も違う解釈だと捉えてしまいます。

シャンカラチャーリャの言葉、イーシュヴァラの言葉に怒りを持ち、それを間違いにしてしまう人もいますが、それは自分を否定する自分への怒りです。

感情気分も移り変わる愛のアーバーサということを、常にヴィヴェーカ・識別していくことが必要不可欠です。

自分の間違いを人に見てばかりでは理解はありません。もしそのような間違いを先生に見たのなら、まずは自分に疑いを持ち、言葉を日本語でも辞書で調べて正しく理解し、サンスクリット語でも調べて、違う日本語の表現でも同じ意味をなしていることを探ることも必要です。そして、違う表現の仕方をしているところに、共通点を見出していけば、自分の理解につなげていくことができます。

違うと思うことを受け入れる努力と、インプットした情報を概念化して関連付け、そこからアウトプットする考え方を習慣付けると、思考の柔軟性が付き想像力が広がり、理解力がついていきますよ。

本当に理解するためには、アッビャーサ・繰り返し繰り返しシュラバナ・先生のそばで聖典の言葉を聞くこと、マナナ・思い起こすこと、ニディッディャーサナ・熟考すること、そしてシュラッダー・考えを明け渡して信頼することが大切です。

それでも理解できない人がいると聖典は言います。

バガヴァッドギーター第15章11節

यतन्तो योगिनश्चैनं पश्यन्त्यात्मन्यवस्तितम् ।
 
यतन्तोऽप्यकृतात्त्मानः नैनं पश्यन्त्यचेतसः ॥
 
yatanto yoginaścainaṃ paśyantyātmanyavasthitam ।
 
yatanto‘pyakṛtātmānaḥ nainaṃ paśyantyacetasaḥ ॥

「そして、自制の努力をするヨーギーたちは、ブッディ・知性の中に自立して存在するものを見ます。たとえ自制の努力をしようとも、成熟していない考えの人たち、見極める力のない人たちは、それ(アートマー)を見ません」

昼と夜、太陽と月のように、正反対のものの見え方、捉え方になります。

プラマーナ・知るための手段:自分自身を理解するためには聖典と、内側の道具である考えをきれいに整えるアンタッカラナシュッディが必要です。

日常生活でやっていることの中で、日々のヤグニャ・祈りの儀式、ダーナ・与える、タパス・努力を続けることです。

バガヴァッドギーター第18章5節

यज्ञो दानं तपश्चैव पावनानि मनीषिणाम्

yajño dānaṃ tapaścaiva pāvanāni manīṣiṇām |

「祈りの儀式・ダーナ・タパスは、人間を清める行為です」

昨日の15章のクラスで、イーシュヴァラはわかってきたけれど、自分自身に感謝と尊敬いうのができていない、ということでしたが、目の前に現れる人もイーシュヴァラ、両親や家族、仕事で関わる人々、社会生活の中で出会う人、その人たちに感謝や尊敬ができているのなら、あなた自身への感謝と尊敬になります。

たとえ人が痛みや苦しみを与えてきたとしても、自分を成長させてくれるための気づきを与えてくれるイーシュヴァラであることが理解できれば、それにも感謝できることです。

さらに、全ての出来事や物事の背景が自分を支えていることに感謝と尊敬があれば、自分自身への感謝と尊敬です。

そして、人間が手を加えなくても、常に私たちを支えてくれている生きた地球・ガイア。そこへいつでも感謝と尊敬があれば、それも自分自身への感謝と尊敬です。

全てが関わり合って支え合って、たった一つで回っている法則・秩序、そのイーシュヴァラに感謝と尊敬ができていれば、自分自身に感謝と尊敬をしていることです。

主体であるブラフマンは常に輝いています。輝きそのものは自立してそれ自身で輝いているので、対象物がそれを照らすことはできません。

また、自分自身だけでは何も輝かせて見ることはできません。

対象物があって初めて、その輝きを認識できるのです。ですから、ミッテャーの世界をあるがままに見れば、全ては見事で美しいのです。

全てに存在を与えている存在、あなたが捉えているものも捉えられないものも、全てはあなたが輝きを与えているあなた自身、ブラフマン。

あなたでないところはありません。

それに感謝と尊敬がいつでもあれば、それが自分自身を尊敬し、感謝していることそのものです。

太陽を輝焼いて見えるのは、あなた自身が輝いているから。

tat tvam asi

Om tat sat

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