KAMALA YOGA BLOG

自分を見ることを徹底することから始める

Q.
「知らない人、識別のない人たちを妨げませんように」についての質問です。子供たちはこれからあれを得てこれを得て経験していくので、教えるのは妨げなのか。

A.
小さい頃からダルマに生きてモークシャという人生のゴールがあることを知るのは、素晴らしい恩恵です。
ダルマに生きて好きなことをすることや欲しいものを得ることは構いませんが、好き嫌いに左右されてしまわないよう過度に執着することを識別していきます。
正しいことを教えてあげても、子供の反抗期には返って怒りや暴れたりすることになる場合もありますが、子供のうちにそのような態度を思う存分出させてあげて、親が移り変わりのない愛で受け入れてあげることが大切です。
その未熟な時にはわからなくても、少しでも分別がつくようになった時には、あの時言われたこと、教わったことが役に立つ時が来ます。
うるさくなり過ぎずに、深い愛を持って優しく伝えてあげていれば大丈夫です。
反抗期には、親が子供の行動や態度、成績や進路などの結果に期待するがゆえに親も怒りや不安になりますが、期待はイーシュヴァラに委ねて、親が安心していれば子供も安心することを体感していって下さい。

Q.
ネジの話しも自分をこの世界の1つのネジとしたらその役割にあれこれと優劣をつけたりするのは自分本位な目線でしかないのだなと思いました。
周りに起こることが全て与えられていて、その流れに身を任せていると、自然と人との出会いも導かれていると感じることも増えて、感謝の気持ちが湧いてきます。

A.
人それぞれのやるべきことは違います。
小さなことでも、人を羨んだり嫉妬したりする必要もなければ、もっと違う何かになりたいと思う必要もなく、それぞれのやるべきことが違うから一つに成り立っているのです。
優秀な仕事をしていても、傲慢になれば未熟ですし、誰もが嫌がるような仕事をしていても、その人が誇りを持って一生懸命働いていれば、周りの人の役に立ち、尊敬されるべきことでありがたいことです。
パズルで何の絵柄もない単色のピースが一つあったら、最初はそれがどこなのかわからず何の役に立つのかも分からなかったとしても、そのピースがなければ絶対に一つのパズルは完成しないように、今ここにある全ては何かしらの役割があって一つなのですね。

Q.
巷ではスピリチュアルという言葉をよく聞きますが、この教えに出会っていないだけで、考え方は似ているような気もします。

A.
スピリチュアルのことは色々ありますので、秩序や道理を正しく教えられているものなら人を成長に導きますが、結論は明確には示されていないものがほとんどです。
先に学んだものが少しでも間違っていると、正しいことを教えられても自分を否定されたような受け止め方になり、間違った信念を握りしめて混乱をする場合も多くあります。その間違いを払拭する方が返って大変になります。
考えを綺麗にするものであれば、スピリチュアルも宗教も哲学も数学も科学も役に立ちます。
最後の結論は、ヴェーダーンタでしか学べません。
それを正しく理解するために人間に生まれてきていますが、せっかくヴェーダーンタを学んでも理解できない人がほとんどです。

カルマの結果として一瞬一瞬が実っていることは、イーシュヴァラの手の内にあり、そのイーシュヴァラを明確に理解することがヨーガの生き方です。
そして、そのイーシュヴァラが自分自身であることを知るのです。
1+1 = 2でなければ、正しい結論には導かれません。
カルマの結果が個人のコントロール下にはないことは、学びの最初の部分です。
そういうことだけなら、一般的なことや自己啓発などでも教えられていると思います。
全体から見たら、ほんの一部の話題です。

Q.
先生のお話しを聞けば聞くほど、なぜこの教えを少しでも学校で教えないのかと思います。
きっと子供の頃から触れ続けたら、上乗せももっと少なく穏やかな大人に成長できるのではないでしょうか?
そうしたら、スピリチュアルな話しや宗教も間違った理解や偏った考え方になることもなく理解されると思います。

A.
今の日本には必要ですね。
そのためにも、正しく学んでいる人が教育現場に取り入れられる環境を作っていくことが大切です。

しかし残念ながら、学んでも理解できない人がほとんどです。
インドでも最後の結論を理解している人はほとんどいないために、ヴェーダーンタを学んでいると言うだけでも怒りを露わにする人もいます。
チャンティングを毎日唱えていても、その言葉の意味は理解していません。
教えていても理解しているわけではない場合も多く、いくら勉強しても簡単に理解できないのですね。

だから何千年も昔から同じ教えの中で同じことが言われています。
人の成熟度は、その人自身が自分で気付けるようにならない限り、小さな時から学んでも理解にはならないのです。

ドゥルヨーダナもインドの王子で、アルジュナの従兄弟で同じ環境の中でダルマを教えられて育っているはずですからね。

Q.
プラクルティのお話を聞いて、移りかわりが自分のコントロール下ではないところで起こることが始めは理解できませんでした。コントロールするものではないのに思い通りにならないから辛かったのだと思いました。
識別を持たない人を妨げてはならないということは好き嫌いで判断して満足している人には識別をした方が良いということを説くべきではないということでしょうか?

A.
誰もが思い通りにならないことに悩み苦しみ悲しみ動揺して生きてきたからこそ、こういう教えに出会って納得いくのですね。好き嫌いで満足しているうちは、こういうことを言っても響きません。
無駄に生きると言われていますが、その人のカルマで痛い目や苦しみとして返ってきて、それを真摯に受け入れられるようになってようやく気がつく時が来るものです。
反対に、好き嫌いに左右されずやるべきことをやっている人がダルマの範囲で好きなことをする分には構いません。やりたくないという不満や嫌だという思い込みや競争や嫉妬から自由になって、すでに与えられていることも、今やっていることも、喜びであり好きなことになっていていれば大丈夫です。

Q.
p155に、カルマ・ヨーガは継続した鍛錬だとありました。
鍛錬というと、厳しい訓練で心身をきたえていくことという意味があるかと思いますが、本当に理解したいのであれば、この学びは時に厳しいものであり、それを乗り越えてこそ、理解できるという解釈で合っていますか?

A.
鍛錬のイメージが、滝行のような上乗せがありますよね。
カルマ・ヨーガでダルマを選択することですが、ラーガ、ドヴェーシャを識別していく中で、嫌なこと、やりたくないこと、面倒臭い、あの人嫌いだから避ける、あっちの方がいい、もっともっと・・・などなど、たくさんのラーガ、ドヴェーシャが現れますよね。
それを識別するときに、人によってはものすごく抵抗が起こって、いつまで経っても避けていたり、理想を追い求めていたり、自己不満を外側に投影していたり、色々とありますが、それが全て自分自身の上乗せしていることに気がついていくこと自体に苦しみを伴う人もいますし、向き合いたくない事象に向き合わなくてはならない時に、自分の中に起こる抵抗感などを識別していかなくてはなりません。
そういう時に、滝行よりももっと努力が必要になる場合もありますよね。
自分の感覚器官も感情気分も、間違った結論も全て識別していくことが日常的なカルマ・ヨーガです。
努力なしにそれはできませんから、今与えられている社会生活そのものがプラサーダであり鍛錬ですよね。

例えば、医療従事者がパンデミックで感染したくないから仕事に行かないとしたら、世の中はどうなると思いますか?
そういう考えから自由だから、目の前にいる患者さんたちを支えるために自分の能力や労を捧げることができるのですね。
常々、尊敬と感謝ですね。

Q.
相手が感情的になって傷つけられることなどを言われた際なのですが、目の前に現れる物事は自分を表す鏡であるともよく聞きます。
なので普段、自分自身を蔑ろにするようなことをしていないか、見直す機会とも捉えられるのでしょうか・・?

A.
そうですね。
自分が主観的にみている可能性を徹底的に識別します。
そして偏見をなくす努力をしてから、相手を理解していきます。
自分自身の感情を客観的に観察するメタ認知思考というのをまず鍛えていくことが大切です。
相手の感情的な言動や行動に巻き込まれていること自体が、主観的な捉え方です。
客観的に自分の思考を見ていって落ち着いた人が、相手の今の成熟度を理解して手を差し伸べることができるようになります。
未熟なうちはこのような教えを人をジャッジして非難する材料にしてしまう人が多いですが、いつもお願いしているように、自分を見るための道具ですので、自分にそういうところはないかを見て気をつけていくことなのですね。
人を傷つけるような言動や行動をする人の背景には、幼少期が影響しています。また、過去生からのカルマも影響しています。
いずれにしても、そこに良い悪いの判断ではなく、なぜそうなるのかを見ながら、徹底的に穏やかに対応して、どうするべきかを客観的に科学的根拠に基づいて論理的に伝えることも必要です。
時には親のように温かく優しく見守ることも大切ですね。

Q.
識別のない人を詳しく見てきたと思います。
自己中心的で、自分の好き嫌いで行動し、ブッディが失われた人。
ただ後半にあったように、なぜそのような人がいるかというと、本来ブッディは備わっているが、その人の生まれ持った性質によって失われているだけ、ということに、あぁそうかとストンと受け入れることができました。視野が広がった感覚です。

身の回りで、怒りや嫉妬でいっぱいの人と出会う時、また自分に対してもそのような広い視点を持って接したいと思います。

またクリシュナが、ここのverseでなぜ識別を欠いている人たちを知りなさいと、私たちに諭すのか、少し分からなかったのですが、今日の授業での先生の言葉を聴きながら、まず自分がそうなっていないかをちゃんと見るため。そしてその整った考えで他者を観察して、識別していけるようになっていくためなのかなぁと思いました。

A.
そうですね。
まずは自分にそういう部分があるかを見て、誰にでもあるので、それを認識して注意深く思慮深くダルマの選択をしていくことが第一です。
そして、自分の感情や嫉妬、識別のなさに気付いて取り扱っていくことをして、穏やかな愛そのものの自分によって受け入れて許容していくこと。それができて、ようやく相手を理解して受け入れることができるようになる。
そして世の中を広い視野で客観的に見ると、多くの人が自分でないものに執着して欲求から願望が生まれ嫉妬や怒りになり、識別のないアダルマな行動を取る。
でも、誰しもが成長していけるので、間違いを識別していけば、犯罪者でも聖者になれるということを教えてくれていますね。
アダルマからダルマに変化するだけでも、大きな喜びの中で生きることができるようになります。

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