私たち人間は、誰もが皆幸せになるために生まれてきました。
しかし、今まで、安心や喜びや満足を、物や人や地位や名誉、結婚や仕事、お金で得られることに追い求めてきたけれど、何もかもが束の間の安心と喜び、一時的な満足ばかり。 喜びも安心も、自分以外のものばかりに本当の幸せを追い求めても、全ては移り変わり色褪せ、限られた時間の中で変化していくものばかりです。 探している自分自身を見ることはできないので、自分以外に求めることしか私たちは知りません。 本当の幸せとは、自分自身が安心で喜びで満足だと知り、社会に貢献するためにやるべきことをして、生きとし生けるものとの調和、結果に執着しない生き方によって、これまで覚えてきた間違いを手放して本当の安心や喜び、満足を理解し、限りのない幸せな自分自身に落ち着きながら生きていくことです。
私たちが今まで知り得たこの世界の全ては、完全なる法則によって全てが秩序だって運ばれています。 それは、目に見えるものも見えないものも、あらゆるものが見事なまでに関わり合って全てが成り立っています。 道端に咲く一輪の花も、なぜ花弁の数も形も色も決まっているのでしょう。その法則によって名前が付けられているのです。 その花を咲かせるために、土の中にはたくさんの微生物が働き植物の栄養になり、そのためには動物たちの排泄物や体が栄養になっています。 そして、雨が降り、太陽の光が降り注ぎ光合成をして植物の生命が維持されています。 その植物たちが私たちの食べ物として身体を作るための栄養となり、植物の光合成で使い終わったエネルギー代謝産物が、私たち人間にとっては絶対的に必要不可欠な酸素として呼吸をし、人間の体内でエネルギーを循環させ代謝し、生命が維持されています。 また人間が使い終わったエネルギー代謝産物が、植物にとって必要な二酸化炭素になって循環しています。人と植物が一つの呼吸で調和しています。そうしてこの地球全体が一つの呼吸として、生命として維持されています。
私たちが自分の力だけで呼吸をしているわけでも体を健康に保っているのでもなく、全体に支えられて生きています。 しかし、人間が快楽や便利さや贅沢を求めてきたことが、環境破壊にもつながっています。 もっと地球に優しく、人に優しく、自分に優しい生き方を選択しながら、この全体と調和しながら生きていたいですね。
全体と調和しながらありとあらゆる物事が一つで回っていることを理解し、考えをきれいに整えていくこと、それをヨーガの生き方と言います。 そして、その全体、全ての法則を司っている秩序のことをイーシュヴァラ(神)と呼んでいます。
物理学も数学も、医学も生物学も心理学も、生態学も気象学も、量子力学も天文学も、エネルギー学も情報科学も、何もかもがそれぞれに関わり合いながら、その知識が現れています。 医学も、数学や物理学なしには成り立ちません。 生態学も気象学も、絶妙なバランスを保ちながら関わり合ってこの自然現象が起こっています。 私たちの目に見える世界も、見えない世界も、たった一つで回っています。 そこには、私たちが日々している行いが密接に関与しています。
この全体が一つに秩序だって回り、私たち人間が本当の意味で幸せに生きるためには、道徳観や倫理観、社会規範や物事の道理も全てはたった一つの法則であり、そのイーシュヴァラに争うことなく身を委ねて、イーシュヴァラに捧げられる行いを選択し、その結果はイーシュヴァラから与えられていることへの尊敬と感謝を持った祈り深く執着のない生き方が大切です。
私が作った、私の功績、私の力、私の物、私の・・・etc.と言っては、手に入れるための欲望と執着、そして失う恐れと不安ばかりで失わないために必死になりますが、全ては自分を通して現れたイーシュヴァラの法則の一つです。 努力すればするほど、与えれば与えるほど、イーシュヴァラから与えられ、あるがままに物事を観る知性も養われていきます。
そして、目の前に現れる出来事も人も全てがイーシュヴァラです。 誰にも偏見を重ねることなく、すべての生きとし生けるものの本質はたった一つであり全く同じです。分け隔てなく同じものを見て、どのような出来事もありがたく受け止められる素直な心が必要です。
そのためには、私たちが今まで生きてきた人生で記憶してきたたくさんの間違いを手放して、イーシュヴァラを正しく理解することが必要です。 そして、最後はそのイーシュヴァラこそが自分自身であることを理解することが、自分を束縛していたあらゆる考えから自由になることです。
これを正しく理解するには、生き方が大切なのです。
決して空想の世界でも、見えない世界だけの話でもなければ神秘体験でもありません。
現実的に身体と思考、言葉を使った社会貢献を通して、人に優しく思いやりで手を差し伸べられる人間性だけでなく、論理的思考や基礎的な教養も必要です。 ある程度理解できる知性が養われていれば、どこにも矛盾がないことが分かります。 もちろん、最初から理解できるものではありませんが、これを学び知識を得つつ、これまでの間違いを手放し、生き方を通して考えを整えていけば、あるがままの真実を少しずつ理解しながら今までの不安や恐れから自由になり、安心と喜びと満足に生きることができます。
何を選択して、どのように日々を過ごすことが最善なのか、そして私たちは何を求めて生きているのか、限りのない幸せとは、そして最後はどうなるのか、人生の目的と生き方、その終着点を学んでみませんか?
毎週土日早朝
5:00〜 ガネーシャ・プージャー
5:20〜 クラス
6:50〜 質疑応答、意見交換
土曜日8:00〜 サンスクリット語文法
日曜日8:00〜 アートマ・ボーダ
伝統的な方法論をシャンカラーチャーリアの解説を元にしたテキストを使用します。
ご参加希望される方は、メールにてお待ちしております。
使用するテキストは、アプリでこちらのキーワードで検索するとダウンロードできます。
”Teaching of Swami Dayananda”
現在、Bhagavad Gita Home Study Courseを使用中です。
その他、Upaniṣad, ĀtmaBodhaḥ, Tattva Bodhaḥ, Brahma Sūtraなどのテキストもこちらに入っているものと合わせて他のテキストも使用しますので、その都度ご案内しております。
ヴェーダには6つの補助的学問、発音法(シックシャー)、儀式の段取り(カルパ)、サンスクリット文法(ヴャーカラナ)、ヴェーダの語彙(ニルクタ)、韻文律(チャンダス)、天文学(ジョーティシャ)があります。また、規範や法律(ダルマ・シャーストラ)、医学(アーユル・ヴェーダ)、建築学(スターパティア・ヴェーダ)、音楽・舞踏(ガンダルヴァ・ヴェーダ)、弓術(ダヌル・ヴェーダ)、論理学(ニャーヤ)があり、現代の自然科学に置き換えられているものもあります。
これを全部学ばなければいけないわけではなく、それぞれの家柄や職業によってすでに学んでいることや、基礎教育の中で学んできたことをベースにしていけば大丈夫です。
ヴェーダーンタとは、Veda・知識 + anta・終わり = Vedānta、ヴェーダの最後という意味です。正統なUpaniadの文献は108あり、Ṛg, Sāma, Yajur, Atharvaの4つの中にそれぞれのUpaniṣadがあります。時代とともに正しく理解されず間違った解釈が広まってしまったため、知識に関する12のUpaniṣadにŚankarācāryaが解説をつけました。
それらがŚrtiと言われるこの教えの真髄、Upaniṣad本体であり、それを理解するために補完する聖典をSmrtiといい、Dharma Śāstra, Mahābhārata, Brahma Sūtraの3つがあります。
これらを伝統の方法論を使って正しく理解できるように教えを伝承しています。
初級の小さな聖典
安心であり喜びで満足な自分自身と、上乗せしたものの見え方で思い込みや妄想を重ねて見ては、上がったり下がったりする感情気分の個人と、その両方を認識している自分自身があることを理解すれば、怒りも悲しみも不安も恐れも忙しさも何もかも、現れては消える一時的なものにすぎません。
そのほんの僅かな小さなエリアである、一時的な、現れている捉えられるものに、日々翻弄していることを知り理解すれば、何も現れていない、現れては消えていくエリア、愛そのものである自分自身の本質の方が、圧倒的に広く無限であり、捉えようもない何にも制限されていない本当の自由があり、どちらが真実かは自分自身で明らかです。
それを体験として理解するために、優しさと思いやりで与える行いをすることで、喜びと満足を得ることができます。
仕事も結婚も子育ても、家庭や学校や仕事などや社会生活のすべての意味は、自分自身が成熟していくためにあります。
それを知らずに、自分を満たそう、安心を得ようとすることばかりが先に立ち、束の間の安心と喜びを追い求め、自分の思い通りにならないことを変えようとしては、一喜一憂し、問題のないところに問題を創り出しては、恐れや不安から怒り悲しんでいるのが多くの人々です。
聖典の勉強をご一緒にして下さる方々は、一度は私のところに足を運んで下さり、知りたいと強く願う方々とご一緒に学びを深めています。
すべての人に共通する自分自身のことですが、どうしても話を聞けない、反発心を持つ、理解できない、時間を作れないなど、聖典に対する価値が見えない人にお話ししても、今はまだ目の前の束の間の安心と喜びを追いかけて、一時的に満足しては、また不安になることの繰り返しの中で、そこに見極めがつかないとなかなか話を聞こうとは思えません。
聖典と先生の言葉に対しても、個人の上乗せしたものの見え方を重ねて、怒りや反発・抵抗感を持ちます。
準備ができていない人は、どれだけ長年学んで教えていたとしても、私がスワミジの言葉をそのままお話しすると怒りを持ち、私を通したスワミジの言葉に否定や指摘を繰り返す人もいます。
そう言う人に出会うと、なぜ理解できないのかがとてもよくわかるので、さらにどのようにすれば理解できるのか、その前段階の理論も合わせてお話しできるようになるので、成長させてくれるイーシュヴァラでありプラサーダであり、ありがたい学びになっています。
理解できていない人には、理解できる人の思考やエリアが見えないと聖典も言っています。
理解できる人にとっては、一つの聖典を学べば十分、自分が自分自身に落ち着くことができます。
その準備も人それぞれ、学び方もペースが違います。
その人に合った言葉や方法で、理解を深めていきます。
聖典を理解している人が言う準備のできた人と言うのは、その言葉の奥にはたくさんの意味合いや条件が含まれており、一般的に使う意味とはかなり異なることも理解しています。
どうしてもその準備ができた人、理解できる資質のある人にしかこの価値が見えないので、コミュニケーションを取って下さり、理解できるであろう方にしかお話ししていません。
聖典の言葉が働き、1クールのクラスだけで不安から安心に変わり、不満から満足になり、無知から知識に変わっているのは、そのような方にお越し頂いているからなのです。
知りたい、安心したい、自分に落ち着きたいと言う、日々の祈りが大切です。
与えることで与えられないことを超えなさいと、スワミダヤーナンダジは言います。
しかし、聖典の言葉、真実の知識は、受け取る準備ができていない人にいくら与えても、受け取ってもらえず、それ以前の準備が必要です。
ですので、祈りと与える行いと、その努力をすることをお話ししています。
その結果として、聖典の言うヨーガの生き方とそのゴールに導かれていきます。
それがダルマ・カルマの法則であり、この全宇宙を統括しているイーシュヴァラからのグレース、プラサーダです。
誰にでも広く伝えようとすると、お一人お一人と十分なコミュニケーションが取れず、理解が異なったまま間違った解釈で、言葉が一人歩きしてしまう可能性があります。
どうか、伝統の方法論と方法を大切に受け継いでいること、ご理解をお願い申し上げます。
ラマナマハリシという聖者が残した小さな小さな聖典
インドの聖者の一人であるラマナ マハリシが残した小さな聖典です。バガヴァッドギーターと同じ流れで展開しており、コンパクトに分かりやすく教えられています。ヴェーダーンタの導入にはちょうど良いサイズで、膨大な聖典の内容をマッピングするようなアブストラクト的なものです。
まずはこちらから学ばれると簡単に捉えられると思います。
ヴェーダーンタ聖典の本体と同じ内容が伝えられている18章からなる聖典
Vyāsaが編纂したMahābhārataの中心にあるBhagavad Gītāには、主人公のArjunaが従兄弟のDuryodanaの嫉妬から何度も命を奪われそうになり、国や地位も名誉も何もかも奪われ、12年間国を追われて最後の一年身分を隠し生きて約束通り戻ってきたところ、国を返さないと言い張るDuryodanaに対し、何度も何度も和解交渉を試みてきたArjunaでした。しかし、その甲斐もなく戦争が起こってしまいました。信頼のおける幼馴染のKṛṣṇaに、ArjunaとDuryodanaは相談に行きました。そして、Kṛṣṇaは私と私の軍隊とどちらを選ぶかを2人に問い、すべての知恵を持つKṛṣṇaを選んだArjunaと、Kṛṣṇaの持っている軍隊・nārāyanaを手に入れたDuryodanaの戦いが始まりました。この時点でどちらに勝利があるかは明確ですが、その知恵がないDuryodanaは軍隊を手に入れ大喜びしました。戦場に向かったArjunaは、復讐に燃え、一番見晴らしの良い場所に馬車を移動するようKṛṣṇaに頼み、丘の上から敵軍を眺めました。そこで見た光景は、自分の恩師や親戚、友人たちが敵側に立つのを見て、どうして彼らを殺さなければならないのか、この戦いをするべきではないのではないかと悲しみに打ちひしがれ震え弓を落とし、毛は逆立ち、力を落としてしまいました。その姿を見たKṛṣṇaは、Arjunaに戦うよう指示し、Adharma(悪)を滅ぼすためにはDharma(正義)の戦いが必要であり、一刻の王子であるArjunaがこの戦いをしなければならない立場で、ここで逃げてもいつかは誰かがやらなければならない責務であることを助言されながら、Arjunaは動揺する自分の考えを識別しながら、人が生まれること、そして死とは何か、個人とは、世界とは、さらに宇宙とは何か、そして自分自身の本質とは何かをKṛṣṇaから教わりながら、人生で人が追い求める最も重要なMokṣaについての教えが始まりました。
馬車に乗るArjunaの姿と、その馬車の御者であるKṛṣṇaが手綱を引いて馬を制御している姿は、私たち人間に例えられています。
私たちの自己認識がArjunaであり、馬車は5つの感覚器官のうちの触覚であり身体を現しています。4頭の馬は聴覚、視覚、臭覚、味覚の4つの感覚器官で、Kṛṣṇaは知性の象徴です。身体を感覚器官が求めるままに欲望と執着で進み大きな海に落ちて溺れ混乱してしまわないよう、しっかりと知性を見失わないよう目の前に置き、4つの感覚器官の手綱を引いて考えとともに統制し、Mokṣaという自分自身が限りのない幸せの源であるという人間が追い求める最後の結論に自分自身が進むために生き方を学び、その結論を理解するための教えがBhagavad Gītāです。
私たちが日常生活の中で自分の考えに妨げられてしまい、知性を見失って願望と執着で感覚器官の赴くまま考えが連れ去られてしまい、怒りや不安、悲しみや恐れなどで苦しみ悩むことがありますが、Arjunaの気持ちに自分の想いを重ねながら理解が進み、自分の状況に置き換えられるようわかりやすく解説されています。
私たちの身体は楽器と同じように、音を出す場所によって発生される音に違いが出ます。それを丁寧に使い分けることで、言葉の意味が変化していきます。発生学や文法などをゆっくり進めています。
伝統的なサンスクリット語、パーニニ・スートラに基づいた言語学を勉強しています。
サンスクリット語はヴェーダの理解を支える補助的学問であり、文法構造を正しく理解することで論理的思考も養われていきます。
○デーヴァナーガリー サンスクリット語表記
○シックシャー 発音法・発生学
○ニルクタ ヴェーダの語彙
○チャンダス 韻文律
○ヴャーカラナ 文法構造
祈り
インドのアシュラムで何千年以上に渡り祈りの詩を唄ってきたものを一緒に勉強していきます。
祈りの儀式
インドのアシュラムでは、朝と夕方に祈りの儀式を行なっています。何千年もの間、同じ祈りの言葉やお花、食べ物などを捧げ、私たちはそのお下がりを頂きます。
日常的にも、私たちはあらゆる法則に捧げる行いをした結果を受け取る生き方をしています。すべての出来事は自分が過去にした行いの結果として実っています。この儀式を通して、小さなエリアから全体へ拡大した見え方に成長していくためにも役立つものです。
最近は活発なご質問がたくさん出てきて、理解したいという願望と、少しずつ理解に繋がってきた喜びで人生が幸せに変わっています。
自然と喜びの言葉が続々と溢れてきて、とても嬉しく楽しい学びになっています。
一緒に学んでくださる皆様には、心から感謝しています。
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Q.1
シヴァとシャクティ、これは、ブラフマンとマーヤーの事になるのですか?ブラフマンは「彼」と言っているから男性ですか?
A.1
ここではBG2-47p230「そのブラフマンは、パラメーシュワラであると考えられます。」と言っていることから、男性名詞になっています。ブラフマンはそもそもは中性名詞ですが、パラメーシュヴァラと考えられるときには男性名詞で、奥さんのパールヴァティがこの世界の全ての現象を可能にしている知識と能力でシャクティと言いますが、シャクティは女性名詞だけど、男性名詞のブランマージー、ヴィシュヌ、シヴァの創造、維持、破壊と再生するための能力や資源とそれに関わる知識全てで、その3つの能力の全てを併せた能力が、シャクティなので、結局男性性と女性性が常に共にあるのですね。
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Q.2
今日仕事が終わって直後感情がざわつき、いつもならぎゅっと止めるところを何にざわついてるのかを見ていくと、どうやら仕事相手の対応があまりにそっけなかったので、よくあることなのですが、ああ認められなかった...と自分を否定されたような感覚でちょっとしたイライラとショックだったようです。自分で自分にヨシヨシして言い分を聞いていき、その人達のそれぞれの立場や見え方あること、自分の上乗せした見え方を理解していったら、もうあっとゆうまにその気分は移り変わり穏やかになりました!
普段、抑圧する癖があることに気づけたのと、イーシュヴァラに解消するとこんなにも早く幸せを感じれるのだと気づけました。
抑圧していたら、あのざわついた感情はもう少し長引いて、何かの瞬間にまたちらついたかもしれません。
こう言う事をどんどんやっていこうと思えました。
こんな機会を与えてくれたイーシュヴァラに感謝です!そんな気づきでした。
A.2
ただクラスを聞いているだけだと、どうしても自分の上乗せした小さな考えの中で解釈しようとしてしまいます。それでは間違ったままになり、本当の理解にはならないので、心の動揺や悩みなどもオープンにしながら、そういうときにはどうしていけば良いのかや、言葉の理解などを少しずつ表現していきながら、自分だけでなんとかしようとせずに、必ず対話をしながらどうしてそう見えているのか、相手の言葉の意図や、自分の解釈が上乗せした見方を重ねて間違っていないかを確認しながら正していくことがとても大切になります。その繰り返しで、間違った上乗せした見え方から歪んだ考えで捉えてしまうことからも自由になります。
ですので、聖典の中でもずっと言われているのは、シュラバナ、マナナ、ニディッティヤーサナ、先生との対話をして熟考することです。それによって自分自身の真実を理解することができていきます。それをしていけば、こんなにも識別することができて考えが綺麗になり、個人の私と意識とのつながりが見えてきます。
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Q.3
自尊心についてのお話しで、やはり浮かぶのは子供の頃のことです。
自分が自分を認めてあげることが出来ず、いつも母の評価、母に認められるとことで自分の価値を決めていたので、ずっと承認欲求が強かったです。
大人になってからは、社会的なステータス、仕事や家庭である程度の地位や幸せを持っていることが自分の安心材料でした。
今もまだその価値観に引っ張られることは多々ありますが、人からどう思われるかではなくて、自分の心に「自分はどう思う?」と問うことを心がけています。
同じ仕事でも、上司、同僚に認められたいから頑張るのと、誰かのために頑張るのとでは、やはり行いの種類は違いますよね…。
そしてまた、限界があることを理解し、周りに助けを求めることも大事だな、と思いました。
何でもかんでも自分で背負って、苦しくなって、結果としてイライラした気持ちを周りに当ててしまっては、パーパがたまる一方ですね。
幼少期の体験を、5歳児のように当たり散らして母のせいだと責めたことは、私にとっては恥ずかしい過去ですし、母を傷つけたと思います。
そんな私に「そう思ってたんだね。ごめんね」と言ってくれた母を思い返すと、なんとも恥ずかしい気持ちになります。
自分を等身大に見て、それを認めることが私はずっとそれが出来なかったので、そのままで良いことがわかった今、とても気持ちが楽です。ありがとうございました。この気づきは私にとっては、今まで生きてきた今世のあれやこれやを解消してくれた、素晴らしい出会いです。
この1年で目の前の世界が変わりました。
私の姿、形は何も変わらないのに不思議なものです。
気づきを与え、いつも、優しく大きく受け止めてくださるかおり先生に感謝しかありません。
A.3
きちんと識別して自己分析できて親に対しても反省して気付けていますし、お互いの願望と執着を解決するためにも、ある程度伝えてわかってもらいながら気持ちの整理をすることができたのですね。
行いの選択を承認欲求ではなく、自分の能力を人のため全体のために役立てるというダルマの目的で使っていけば、自分観と世界観に間違いを上乗せして認めてもらえないことで怒りになる必要もなく、役に立てていること、個人の力を小さくても発揮できて喜んでもらえていることの喜びがありますよね。それがダルマの喜びです。
幼い時の経験によって自分のことを客観的に見れているので、またそれが他者への理解に変わっていきますので、成熟していくとそれも良い経験だったと気付けます。それもカルマの法則でイーシュヴァラに運ばれています。
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Q.4
育児に悩まされて苦しかった時に先生に出会ってヴェーダーンタを学べる事ができたのはイーシュワラが導いてくれたとしか思えません。
本当にこの学びで心が楽になり学んでいてとても楽しいです。
まだまだジーヴァが出でしまい自己嫌悪になってしまいますが、既に与えられている事に常に感謝できるように、旦那にも子供達にも感謝を伝える事を忘れない様にしたいと思います。
A.4
イーシュヴァラがいつも悩みや苦しみとして与えてくれて、それを乗り越えて成熟していけるようになり、精神的な自立ができるようになったのですね。あなたがいつも喜びと満足で笑顔で過ごせることが、家族や周りの人にとっても一番幸せなのです。
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Q.5
今回の学習は とても心にまっすぐ入ってきました。「あなたは行いの作者であって、結果の作者ではない」「人は皆能力に限りがある。それを向上させる努力をする事はできる。足らないところは人に頼む。丁寧に相手を尊重して感謝してお願いする。みんな誰でも足りないところを持っている。 皆んな足して一つである」これ良いですね。 もう自己肯定感もあがるし、お互い尊重しあえて笑顔の交換が生まれます! いつもこの考え、気持ちを持っていれば 毎日楽しく幸せだろう!と感じました。 必要以上に落ち込む事も舞い上がる事も無く平穏で満たされた日々。今、私が関わっている仕事がまさにこの環境です。 みんな協力的で向上心があり温かく、共に助け合いながら個々で成長しあおうと頑張っています。
A.5
間違った自分観を上乗せして見ていたから、行いの動機が足りない自分に付け足さないといけない状況から、人と比べたり羨んだりして自分を小さく見下げてしまっていたのですね。行いの選択をダルマにしていけば、誰かと比べる必要もなく、自分のやるべきことに専念しながら、失敗も成功も全てはイーシュヴァラから与えられていて、自分の心の成長のためにあり、少しずつ考えを綺麗にすることができていくのですね。そうすればいつでも喜びの中に居ることができますね。
常に、私はまた嫉妬してるな、羨ましがっているな、と間違った自分観を上乗せしている考えの癖を眺める視点にとどまり、まずは広く限りのない空間にイーシュヴァラを思いながら解消する練習をして下さいね。
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Q.6
アートマーもアナートマーも全体だよというのは、たった一つの意識である目撃者、私自身、サッテャンでありアートマーであるブラフマンが、マーヤーを使ってイーシュヴァラとして現れているこの世界、個人、全てはミッテャーでアナートマーであるけれど、ブラフマンは全ての源でありながら材料でもあるからミッテャーの世界の全てに満ち満ちていて、アナートマーもアートマーも全体だよと言うことで良いでしょうか?意識=全体ですか?
A.6
カーラナ宇宙、マーヤー自体が、全ての質の可能性であり全ての質が現れる原因で、ウパーダーナ・カーラナと言います。物がひとりでに作品となって現れたりしないように、このウパーダーナ・カーラナがひとりでに、この知的な地球を含む宇宙全体という作品として現したり現れたりできません。そこにはもうひとつ、ニミッタ・カーラナと呼ばれる知的原因があり、まさにそれこそが、存在意識、サット・チットだと聖典は言います。
この宇宙とは100%意識で、意識が「ある」なので、「ある」がミッテャーに染まっているのではなくミッテャーとは、サッテャムなので、サッテャムだけがあります。ミッテャーはあたかもありますが、真実はあなただけが「ある」のであなたが全体なのです。
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एतद्योनीनि भूतानि सर्वाणीत्युपधारय ।
अहं कृत्स्नस्य जगतः प्रभवः प्रलयस्तथा ॥ ७-६ ॥
etadyonīni bhūtāni sarvāṇītyupadhāraya |
ahaṃ kṛsnasya jagataḥ prabhavaḥ pralayastathā || 7章6節 ||
生きとし生ける物たちやそのエレメントたちは、それらの源をこの2つの側面のプラクルティに持っている事を理解しなさい。
(ですから)私から全ての世界が現れていて、同じく、全ての物事が私に解消している、それが私なのです。7-6
「この前の詩で、クリシュナは、『私が創造宇宙全体の源であり、解消の源である』と言いました。自分が源であると神が言う時、どのような事を彼は意味しているのでしょう? 彼は、ひとりの生き物として、ニミッタ・カーラナとして、創造者であり、その中に全てが解消する人であり、そして、その人によって全てが支えられ得ている人であり、彼がこの3つの側面の原因です。
では、何がイーシュヴァラなのでしょう? あなたが、個人としてジャガット・世界を見る時、当然、あなたは肉体、考え、感覚器官を持つ人です。世界はそこにあります。全てのこういった事のためには、私たちがマーヤー・ ウパーディと呼ぶ源、原因を必要とします。この全世界の姿の中で、マーヤーを伴う、サッテャム ジニャー ナム アナンタム ブラフマが、パラメーシュワラです。
シャーストラが原因、源を分析する時、私たちがスヴァルーパと呼ぶもの、つまり、まさに原因、源の本当の姿を明かします。そのために、それは異なった定義を合わせて持っています。サッテャム ジニャーナム アナンタム ブラフマ。これらは定義する言葉ですが、これらのどれもが、固有の質をもたないことを、あなたは知る事でしょう。実際、これらの言葉が全ての属性を否定します。ですから、言葉によって私たちが知っている全ての性質が否定されて、源、ブラフマンは、ニルヴィシェーシャ、つまり、性質から自由なものとして明かされます。こうして、まさに原因、源がニルヴィシェーシャ、二元性のあるどのような姿からも自由なものとして示されるのです。」1)
निर्मानमोहा जितसङ्गदोषा अध्यात्मनित्या विनिवृत्तकामाः ।
द्वन्द्वैर्विमुक्ताः सुखदुःखसञ्ज्ञैर्गच्छन्त्यमूढाः पदमव्ययं तत् ॥१५-५॥
nirmānamohā jitasaṅgadoṣā addyātmanityā vinivṛttakāmāḥ |
dvandvairvimuktāḥ sukhaduḥkhasñjñair gacchantyamūḍhāḥ pafamavyayam tat || 15-5 ||
尊敬を望むことや妄想から自由な人、愛着の問題を克服した人、いつも自分自身に焦点を当てていて、願望が完全に去ってしまっている人、苦楽として知られる正反対の2つから全く自由であり、幻想の中にいない人は、あの滅びる事の無いゴールに行きます(ゴールを得ます) 15章5節
「ニルマーナモーハ・尊敬の要求から解放された人々は、マーナ・承認欲求とモーハ・妄想から自由な人たちです。私たちが見たように、マーナは他の人たちからの尊敬を要求することです。これから自由であるために、私たちはなぜ、尊敬を要求するのかを分析しなければなりません。それには理由があります。他の人からの批判の気配だけでも、耐えることができないほど、私たちは、自分自身に対してとても批判的であるかもしれません。自分が、尊敬に値する資質を持っているとしても、もし、自分が自分の価値を認める適切な感覚を持っていなければ、私たちは 外側にそれを求めるでしょう。これが様々な方法で表現され得ますが、そのうちの1つが、他の人からの 尊敬を要求することです。これを克服するために、傷ついた自己イメージを癒すことで、相対的なレヴェ ルでの自尊心(自分が自分の価値を認める感覚)が達成されなければなりません。
モーハは、間違った価値を物事に見る事です。私たちは、物事や状況に、それらが持たない価値を上乗せし、結果として失望を感じます。本当ではない価値の数々のために、私たちは平静さをなくして世界を見 ます。ヴィチャーラ・適切な探究によって、私たちはあるがままに物事を見る能力を得ることができます。こうして、尊敬を要求する考え、客観性の無い考えから自分自身を解放した人々がニルマーナモーハ・尊敬の要求から解放された人々と言われます。
ジタ・サンガ・ドーシャとは、関わりが持つ欠陥を征服した人たちです。それが無いとあなたが不完全さ を感じる物は、どのような物も、あなたがサンガ、つまり、執着を持つ物です。探究と成長によっての み、それは克服され得ます。ジタという言葉を使って戦われるべき戦争があることをほのめかしていま す。これは本当です。しかし、それは純粋に認識に関する戦いです。私たちは、自分たちが執着している 物事全体を本当は知りません。私たちがそれらを失う時にだけ、私たちはいかにそれらが私たちの幸福の感覚に不可欠であったかを理解します。
もしあなたがそれを分析すれば、本当の執着はありません。物事やあなた自身に対する特別な見方が、束縛の性質を持つ執着や心酔や、あるいは強迫観念ですら作り出しました。適切な探究・ヴィチャーラによってこれらを克服し統括する人たちが、ジタ・サンガ・ドーシャと呼ばれます。
ここで議論されている人々は、スカ・ドゥッカ・嬉しい事や辛い事と私たちが呼ぶものに要約することができる、たくさんの対極なものから完全に自由な人たちです。彼らは、全ての状況の中で和らいでいて、あるがままの事実に向かい合うことのできる考えを楽しみます。結果として、彼らは間違いから自由であって、アムーダ・もはや何にも惑わされていない人たちです。タト アッヴャヤム パダム ガッチャンティ・朽ち果てることの無いあのゴールに到達します。」2)
षेत्रज्ञं चापि मां विद्धि सर्वक्षेत्रेषु भारत ।
क्क्षेत्रक्षेत्रज्ञयोर्ज्ञानं यत्तज्ज्ञानं मतं मम ॥ १३-२॥
kṣetrajñaṁ cāpi māṁ viddhi sarvakṣetreṣu bhārata |
kṣetrakṣetrajñayorjñānaṁ yattajjñānaṁ mataṁ mama || 13章2節 ||
「個人とイーシュヴァラは本質的に同一です。それが認められれば、恐れや悲しみなしにどんな役割を果たすこともできます。もちろん、個人としては歴史があります。あなたはある時期に生まれ、成長し、年をとり、成功することもあれば、失敗することもありました。それはすべて肉体と感覚器官と考えを含む場所で可能ですが、その本質である1つの不変の意識では不可能です。しかし、あなたがイーシュヴァラであるにも関わらずイーシュヴァラではないという小さな分裂をした場合、どこに行っても、何をしても、恐れから解放される可能性はありません。個人として、あなたは死への恐れ、孤立への恐れ、世界に圧倒されることへの恐れを避けられません。あなたはとても多くの心配事を持っているので、あなたにとって内なる休息はありません。
賢い人を知るには、賢くなければなりません。そして、あなたが自分自身の真実を知っている先生の下で勉強するのは、いくらかの恩恵によってのみです。よく頻繁に起こることは、真実を知らない先生を選ぶことであり、これは盲人が盲人を導くことになります。人はいくらかの洞察を持っているかもしれないし、シャーストラ・聖典について非常に学ばれて学識があるかもしれませんし、あるいは、ある妄想の魔力の下で、彼は真実を知っていて他の人に教える立場にあると思うかもしれません。自分で真実を知らない限り、彼が本当に知っているかどうかをどうやって判断できますか?そして、あなたがそれを判断することができれば、あなたは真実を知っていて、先生を必要としません。ですから、人々が、知らない先生の手に渡る方法を理解するのは難しいことではありません。問題はしばしば、学習にカリスマ的なアプローチを取ることです。誰かが有名であるならば、彼が従われるに値する価値があるという仮定がしばしばあります。」3)
अमानित्वम् अदम्भित्वम् अहिम्सा क्षान्त्रार्जवम् ।
आचार्योपासनं शौचं स्थैर्यम् आत्मविनिग्रहः ॥ १३-७ ॥
amānitvam adambhitvam ahimsā kṣāntirārjavam |
ācāryopāsanaṁ śaucaṁ sthairyam ātmavinigrahaḥ || 13-7 ||
謙虚さ、偽りのなさ、傷つけないこと、受け入れる、率直さ、先生に対する奉仕、内面と外面の純粋さ、動揺のなさ、忍耐力、精神の習得。13-7
「アマーニットヴァ謙虚、アマーニットヴァムはマーニットヴァ自尊心の欠如です。 マーナーは傲慢、自己賞賛、アートマナハ シュラーガナム(褒めて得意にならせること)を意味します。マーニーは、自分の美徳を他の人に知らせ、彼らに承認することを要求する人です。なぜ他の人がそれらを認めるべきですか?与えられた能力の位置に価値がある人だけが称賛されます。私たちの問題の多くは、他の人が私たちの美徳を認めていないことが原因です。承認を求めることは非常に一般的であり、それにはある程度の正当性があります。ある程度の資格があれば、それが認められるのは良いことです。問題は、その承認を要求することにあります。他の人も承認を望んでいるので、私が常に承認の受け手であると主張するならば、私は他の人を正しく承認する立場になく、私の関係には絶え間ない緊張があります。
私がそれを要求するならば、私は感情的な問題を抱えています。なぜ誰かに私の業績を認めるよう要求する必要があるのですか?私自身の意見では、私は本当に何も達成していないと思うからです。客観的には自分が何を成し遂げたかはわかりますが、その原因には、幼い頃から引き継がれている、成功しなかったという感覚があります。この感覚は、親の批判、教師による批判、または健康的な自己イメージの発達を損なう多くの事柄によって引き起こされた、治癒されていない傷のために持続します。自己イメージが低いので、自分の価値を認めるのは非常に難しく、自分の価値を証明するために執拗な努力を重ねることがよくあります。私が非常に重要だと思う他の人が私の価値を認めなければ、私はそれを扱うことができません。これは心の底から評価されるべきです。私がマーニットヴァム自惚れを持っているということは、非難や自己イメージのさらなる損傷の問題ではありません。それは理解すべきことです。なぜ他人から称賛を得る必要があるのですか?全く必要ありません。これをよく見ることは、承認の要求を減らすのに役立ちます。どんな敬意も自然にやってくるはずです。
もし私が称賛を集めようが集めまいが、私は自分自身を尊敬するので、他の人がそれを与えるかどうかは問題ではありません。人生で本当に重要なのは私がどれだけ成熟しているかだけです。それが私を尊敬すべき人にしているのです。誰も彼を認めていないため、または彼がノーベル賞を受賞しなかったために、悩み怒る偉大な科学者は、ただの子供です。子供たちは他の人が見ているときに自分の成果を披露するのが大好きです。
これは、あなたの可能性を伸ばすことに何か問題があると言っているのではありません。あなたには特定の贈り物があり、それらはイーシュヴァラの栄光として表現されます。しかし、その表現だけではあなたは成熟した人にはなりません。それはあなたがそれをするのが好きだから何かをすることから来ます。他の人があなたを認めてくれることを期待してそれを行うと、彼らの目を通してあなたは誰かになるでしょう。それは子供っぽいです。私は自分の目で誰かでなければなりません。そしてそれは私が成熟したときだけそうなるでしょう。お金や力などがあるかどうかではなく、まさにそれが私を人にしているのです。重要なのは私が自分自身をどう見るかです。私は自分の体を尊敬し、心を尊敬し、感覚を尊敬します。これが私の自己イメージである場合、私は自分の成果を誇示する必要はありません。このクシェートラは私に与えられた美しい道具であり、それは私がそれを完全に尊重するのに十分な理由です。これは単に心理的な意味での「自尊心」ではなく、私に与えられた美しい何かへの感謝です。それについては祈りがあります。体は芸術作品です。骨格構造は工学の傑作であり、肝臓は化学プラントであり、皮膚はエアコンであり、思考は並外れた驚くべきものです。私たちはコンピューターの能力を称賛しますが、そのコンピューターを作成したのは人間の思考です。肉体的、感覚的、精神的な複合体全体が美しい創造物であり、それをそのまま楽しむ理由は十分にあるので、自分自身を尊重します。自分を尊敬したら、称賛を要求しません。心から感謝します。誰に祈りを捧げますか?イーシュヴァラです。この創造物で栄光を放っているのは、イーシュヴァラの栄光に他ならないことを私は知っています。これを知って、祈りの感謝があります。イーシュヴァラの栄光をこのように簡単に理解することで、私は自分自身への敬意を育み始め、自分自身を非難する必要がないことに気づきます。
宇宙全体に意味と知性が見られると、宇宙全体に美しさが吹き込まれます。したがって、身体全体は、限られたものではありますが、美しい作品です。それが受け入れられれば、私は自分自身に受け入れられます。 サット チット アーナンダはそれ自体が許容できるものであり、美しいため体も許容できるものです。これが認められれば ニャーナ知識から生まれた自発的なアマーニットヴァ謙虚さがあります。 クシェートラ領域には私が開発した特定の力がありますが、誰にも何も証明する必要はありません。それぞれが自分自身を表現することができる彼または彼女自身のクシェートラを持っていますが、表現の形式は誰にとっても異なり、そして完璧です。本当に重要なのはそれを受け入れることです。それは成熟度であり、人を美しくするものです。その受け入れがあれば、承認を要求することは決してありません。ここで繰り返したいのは、これはあなたが自分自身を非難することができるという根拠に基づいて、理想とされるべきではないということです。これは判断のためではなく、理解のためです。 誰かの行動のために傷ついたと感じるとき、あなたはそれに対して何らかの責任があるかのようにその行動を内面化します。現実には、あなたは大人としてあなた自身の感情と行動にのみ責任があります。それらが間違っている場合は、いつでも修正できます。しかし、他人の感情や行動に責任を持つ余裕はありません。あなたができる唯一のことは、あなたがそれぞれの人を受け入れることです。すべての人は与えられた背景から来ています。同じ背景で、あなたは同じことをするでしょう。彼または彼女の応答の基礎として他の人の背景を考慮することは成熟度です。」4)
वे स्वे कर्मण्यभिरतः संसिद्धिं लभते नरः ।
स्वकर्मनिरतः स्द्धिं यथा विन्दति तच्छृणु ॥ १८-४५ ॥
sve eve karmaṇyabhirataḥ saṁsiddhiṁ labiate naraḥ |
svakarmanirataḥ siddhiṁ yathā vindati tacchṛṇu || 18-45 ||
自分のダルマを喜ぶ人は成功を収めます。 自分のダルマに専念し、成功を収める方法を聞いてください。 18章45節
「これはすべてカルマ・ヨーガの一部です。 シャンカラはアビラティ・喜びをコミットメントとして楽しみを持って自分のダルマに完全に熱中している人です。 これは、自分のダルマを果たすことに専念し、それを楽しむ人です。 彼は自分がやるべきことをすることから来る満足を経験するだけでなく、自分がすることに本当に満足していて、他の誰かの仕事をしたくありません。 当然、彼は成功を獲得します。これはここでは内側の道具である考えを綺麗にすることです。 カルマが関係しているのでそれはモークシャになることはできません。そしてアートマンの知識を得る人だけがモークシャを得るのです。
人間の成功とは何ですか? まず、それは成熟した個人になることです。 風船が破裂して泣いている45歳の子供を想像してみてください。 この人についてどう思いますか? ばかげているように見えますが、私たち全員にこの種の子供がいます。 成熟した人はすべてのカルマを同じものとして見ます。私がしていることを変えたいときはいつでも、問題は私がしていることではなく私にあることが多いです。 ある状況では自分を受け入れることができず、実際には自分が嫌いなのに、自分の仕事が嫌いだと思います。 そうなると、私が何をしても問題が発生します。 特定の人にとって他の仕事よりも適している仕事もありますが、それは仕事とは何の関係もありません。 自分がしている仕事を楽しみ始めたら、どんな仕事もあきらめることができますが、仕事の切り替えが頻繁に行われる場合、問題が他の場所にあることは明らかです。 状況を変え続けても、どれも気に入らない場合は、問題はあなたにあることを意味します。 それは状況とは何の関係もありません。 あなたは同じ不満を持っているので、どこへ行っても、何をしても変わりません。 全体の問題は「私」に他なりません。それがあなたもそれを解決できる理由です。 何か、または他の誰かが問題である場合、解決することは不可能です。 これの大きな祝福の1つは、問題が私であることがわかったときに、解決策が利用できることです。 私は自分自身に対する態度を変えることができます。 今私に期待されていることは、私はただやって、それを楽しんでいます。 献身と満足をもって自分の義務を果たして人生を送る人は、アンタッカラナシュッディ・考えを綺麗に整える面で成功を収めます。準備ができたら、知識を得るのに支障はなく、それによって人生のゴール、モークシャになります。」5)
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【引用文献 】
1) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME8 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第7章) Swami Dayananda Saraswati 著 P40-42
2) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME8 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第15章) Swami Dayananda Saraswati 著 P85-87
3)Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME7 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第13章) Swami Dayananda Saraswati 著 P282-283
4) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME7 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第13章) Swami Dayananda Saraswati 著 P360-361
5) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME9 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第18章) Swami Dayananda Saraswati 著 P170-173