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常識や普通とか道徳って一体なんだろう

クラスの中で、「最近よく聞く言葉で、『常識を破壊する』というのをよく見かけますが、それは間違った方向に進んでしまう可能性がある。」とお話ししたことから、「人それぞれの常識が違う」という意見が出たので、ここでしっかりとその意味を考えてみましょう。

私がお話ししている中で常識とか普通、当たり前、道徳と言っているのは、そもそもあるものに調和することを言っていて、その道理や秩序であるイーシュヴァラに調和したダルマのことです。

「常識」を辞書で調べてみると

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「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「―がない人」「―で考えればわかる」「―に欠けた振る舞い」「―外れ」」

〜国語辞書goo〜

色々な辞書に掲載されている意味をまとめたサイトがありあますので、参考にしてみて下さい。

コトバンク https://kotobank.jp/word/常識-79273

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自然の力などは誰もが逆らっても人間の力が及ばないことは理解できると思います。

自分の力、人間の力だけでなんとかしようと思っても、そこへの調和がなければ物事は上手くまわりません。

そういった元々ある力に調和して応用することで、様々な物質を作り出すことや、知識や技術として能力を高めることができるのですね。

また、困っている人がいたら手を差し伸べる、人の役に立ちたい、相手にとってどうしてあげるのが一番良いのだろう、と思う優しさや思いやりの心も、人間が本来持っている感覚です。

人の痛みに敏感になり、相手の立場を理解しようと努め、その人にとって必要なことは何かを考えながら、穏やかに対応することも常識的な態度です。

人の話を最後まで聞くことや、偏見や自分の思い込みで人に理不尽な言葉や態度をしないよう気を付けるということも、その場に調和した行動になります。

仕事が9時から17時までと決まっていたら、その時間仕事をすることや、得たい知識の授業が90分なら、その時間クラスに参加する、行けない事情があるなら連絡をするなどが常識です。

人間がそうして常識と言われることを行ない調和して生きていれば、法律やルールに縛られているという感覚はほとんどなく、考えずともそれに従っているのが普通と言われるものです。

それがわからないと、その場の常識やルールに縛られている感覚になり、不満や愚痴や文句ばかりになってしまうのですね。

本来は、人がそうされたくないことや、不調和な行動を取ると困る場合に、法律やルールによって規制され罰則が課せられていますので、まず先に人間が本来あるものに調和している方が常識で、それに調和しない行動が常識はずれとなり、その場合に規制されるようになっていることがほとんどです。

なぜ常識的な行動が取れないのかというと、人間が本来調和して生きることが自然な営みであるのに対して、考え方に様々な歪みが生じて、その主観的な狭いエリアで物事を捉え、もっとあっちの方が良いとか、嫌だから避けたいといった自分本位の選択になり、相手や周りの環境や人々、全体への調和を優先することよりも自分の感覚と感情を満たそうとすることが優先になり、間違った方向に行くのです。

それが行動の基準になることで結果として、自分自身の体や心の不調和になっていきます。

それでも、基本的に調和し常識的に生きていても、人間である以上知っていることの知識もほんの一部分でしかありませんし、完璧に全てをこなすというのは不可能なので、間違っていたら素直に認めて正していければ良いですよね。

人それぞれの常識があるというものの多くは、間違った観念のことを常識と言っていたりするので、こうでなくてはいけない、こうあるべきだと、社会的に広く普遍的に捉えられているものとの違いがあるものを、自分や他者に押し付け強要したりしている可能性があります。

そういう人が、他者に間違った観念を上乗せして、知らない人に対して非難の言葉を投稿して傷付けているのをよく見かけます。
間違ったことをしている人を咎めるために、さらに間違った行為をする人もいますよね。

そのような間違った観念は破壊しなくてはなりません。その場合は、調和して生きている道徳的な人から教わる必要があります。

ただ、本当に自分本位な考え方しかできないと、間違ったことをしていても、それが調和だと言い張り、当然だという思い込みから、周りや全体への不調和には目も向けず、ダルマに生きる人の話を受け入れない人もいますので、そういう場合はダルマを選択する人の方がその場で意見を譲ってあげる方が調和になります。

相手が少し落ち着いてから、本当はこういうものですよということを気づかせてあげられると良いですよね。

ですので、ダルマを選択するという時に、他人をどうこう思うことや、他人からどう思われるかということよりも、まず自分の行動がその時その場と全体に調和しているかどうかが行動の判断基準であり、それを理解した上で本質的にどうするべきかを見通せて、人が将来的に真の意味での自由と幸せに向かっていけるよう物事を考えられる人が、その常識を教える立場になることがまず先ですが、自分の固定観念を常識だと思い込んでいる人が教えると、その中に縛られた偏見で人にあれこれ言い、相手の立場を理解する想像力と優しさや思いやりに欠けた態度や言動になってしまいます。

そこから抜け出せるように、自分の感情を客観的に観察して、他者の立場などを想像した対応を心がけていかなくてはなりません。

間違った行動をする人にはそれぞれの背景があってそうせざるを得ないことを理解した上で、その人に合った方法やペースで、間違った考えや言動、行動から少しでも自由になれるように、優しさと思いやりで手助けをしていけると良いですね。

また、各国や家庭での常識も異なる場合がありますが、それがどちらも周りや全体に調和することであれば、譲り合いの気持ちを持ってお互いを尊重することが調和です。

例えば、日本での交通規制として自動車は左側通行ですがアメリカでは右側通行になります。そこで日本の常識では左側通行なのだからと融通が利かなければ、事故を起こしてしまいます。

その土地、その国の地続きの道路を通る人々やその周りに混乱を来さないように規制されていますので、その国に行ったらその場に調和する、郷に入っては郷に従えと言うように、仕事や家庭や集団の中でも柔軟さが必要であり、それが調和になります。

しかし、常識と言われる中にも間違いや判断に迷う場合もありますよね。

大昔は地球は平だったと人類が思い込んでいた時代があり、それが常識だと思っていたところに、地球は丸いということを言い出した時には、その常識を覆すことにものすごい反感を買ったという時代もありました。

しかし、地球は丸いというのが人間が知ろうが知るまいが本来ある事実であり、それが当たり前の理解になるまでは人間の勝手な思い込みによって間違っていたということになります。

一度植え付けてきた間違いを払拭することはとても時間がかかることで、その難しさもあることがよく分かります。

ヴェーダーンタで自分自身の知識を理解したいと願い学ぶ場合には、言葉が本来持っているそのままの意味で理解していくことが必要不可欠です。さらに専門用語として使っている言葉もあるので、母国語であっても辞書で調べるということを常に心がけていくことが大切です。

そうやって言葉を正しく理解して使うことも常識の一つであって、社会的に責任ある立場の人たちの多くは、言語の持つ本来の意味を正しく使う習慣を身に付けています。

ヴェーダーンタを正しく理解して解説しているシャンカラーチャーリヤと、それを正しく理解して扱う先生に対して、不快感や嫌悪感、怒りが湧くことや非難が起こるのは、その言葉に対して間違った意味を上乗せして捉えていることを自分で認識して、その間違いを訂正していかなくてはなりません。

自分の間違いを自覚できない人が聖典と先生を間違いにして、もっと自分に分かるように教えられる先生を探し求めることがよくあることも言われていますが、先生を変えても自分の間違いを見ない限り真実の理解は起こらないので、自分が成熟していくためにも、まずは慎重にダルマに生きることが必要です。

どれだけ勉強しても理解が起こらないのは、自分の間違いを見ずに偏見を持ち続け、人や全体への想像力が働かずにダルマを選択せずにラーガ・好き、望ましいものとドヴェーシャ・嫌い、望ましくないものばかりを選択しているからです。

物事を選択する時には、ダルマ、アダルマ、ラーガ、ドヴェーシャの4つの感覚が同時に現れます。その中で思慮深く、ラーガとドヴェーシャを識別し常にダルマを選択する努力を続けて、それが当たり前の習慣になっていくことで、行動も言動も考えも自然とダルマに沿った生き方になっていけるので、物事を迷うこともなくなり、いつでもやるべきことをやることが一番喜びになっていけるのです。

聖典の教えに最後まで耳を傾けるために先生の前に座り、自分の間違いをそのままにせず、正しい質問を繰り返し、理解できるように自分の考えを明け渡して信頼するシュラッダーが大切になります。シュラッダーがあれば、モークシャは叶うと言われるくらい大切なことです。

その中でも、人間には間違いもあるのが当然ですから、対話をしながら正しい意味を一緒に確認しながら学び進められると良いですよね。

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