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煩わしさや困難さ心地悪さから逃避しては強くなれず必然的に弱くなる

<Bhagavadgita 第5章>

 Verse3 

「逃げることは弱さを生み出し、強さを作りません」

「もし逃避であれば、サンニャーサはうまくいきません」

ज्ञेय: स नित्यसंन्यासी यो न द्वेष्टि न काङ् क्षति |
निर्द्वन्द्वो हि महाबाहो सुखं बन्धात्प्रमुच्यते || ५-३ ||

jñeyaḥ sa nityasannyāsī yo na dveṣṭi na kāṅkṣati
nirdvandvo hi mahābāho sukhaṃ bandhātpramuchyate BG 5-3

アルジュナよ、何に対しても決して嫌ったり切望したりしない人、ニッテャ・サンニャーシーであると知らなければなりません。なぜなら、対極のもの、好き嫌いから自由である人が束縛から簡単に解放されるからです。

※サンニャーサ:社会から隠退して世俗的な役割を全て放棄し、聖典の学びに没頭する生き方

生徒

<要約>

・弱さがあるから逃げ出してしまい、逃げてしまうから強さが育たない

今まで愛していた多くの物事に満足して卒業し、物事を嫌って避けることのない人。嫌悪もなく避けることも切望することもない人がサンニャーシー。諦めて手放したのなら、それに執着していることと同じ。

サンニャーサは単純に義務を手放すことではない。煩わしさや難しさで放り出すのは容易く、人はそれを避ける傾向にある。痛みのあることや、やりくりが難しい状況から逃げるためのサンニャーシーは逃避。状況を逃避していては、人は強くなれず必然的に弱くなる。

実際に起こっていることは、あなたは何かを失っている。何かとは、”強さ”。逃避は、あなたが問題を大きくしていることを意味する。それにより将来的に、より小さな問題からも逃げなくてはならなくなる。成功も失敗も、あなたが直面する問題ごとに強さを得るとするなら、逃げるごとに問題と向き合い留まることで得られる強さをあなたは失う。

どれだけ辛いことでも、義務から逃げることでは全く人は成長しないことを知ってほしい。義務を手放してのサンニャーシーはすべきではない。何事にも嫌悪の態度もなければ切望もない人だけがサンニャーシーになるべき。

内側の弱さのためにカルマ・ヨーガから逃避してサンニャーシーになろうとし、逃避しているからいつまでも弱さを克服できない。この相互依存の構造は、自己尊厳の無さからダルマを選ぶことができず、ダルマを選ばないことで自己尊厳は低いままであるという相互依存と同じ構造であり、アンニョーン・アーシュラヤと呼ぶ。

自己尊厳がないとき、プレッシャーなしに願望を持てない。プレッシャーとの距離を保たなければ、ダルマとは調和できない。ダルマと調和できないとき、自己尊厳は持てない。アンニョーンニャ・アーシュラヤ。 

準備が出来ていない場合、ラーガ・ドヴェーシャの識別を必要とするなら、安全な探求のためにはカルマ・ヨーガが好ましい。アンタッカラナシュッディ無しには、サンニャーサの人生を生きることすら出来ない。義務を遂行し知識を探求するカルマ・ヨーガでは、その過程で荒波に揉まれ、自分自身を磨くために必要な全ての要素を提供してくれる。

成熟なしにサンニャーシーになりシャーストラを勉強しても、その意味を知る事なくシャーストラの言葉を繰り返す。このような人々は多く、分析せずに全て言われたこと、書かれたことをそのまま話すだけになり理解がない。

・ニッテャ・サンニャーシーの意味

絶対的なニッテャ・サンニャーシーの意味は、自分自身の知識を持ち、完全にラーガ・ドヴェーシャから自由な人である。もう一つの相対的な意味は、「ある種のことに関しては、全ての人はニッテャ・サンニャーシー」とあるように、例えば子供の頃に大好きだったものやことへの執着は無く、ラーガ・ドヴェーシャはあるかもしれないが、その呪縛の支配には落ちないカルマ・ヨーギーである。

・カルマヨーギーのライフスタイル

カルマヨーギーのライフスタイルでは、ラーガ・ドヴェーシャが現れることを許し、同時にそれらを効果的にやりくりし、ラーガ・ドヴェーシャの呪縛から私自身を解放する機会がある。このカルマ・ヨーガはブッディ・ヨーガとも呼ばれ、ここでいうブッディとは、為さねばならないこと、すべきでないこと、行いの結果に対する特別な心構えのことを意味する。その心構えとは、プラサーダ・ブッディと、イーシュヴァラ・アルパナ・ブッディの二つである。

 プラサーダ・ブッディ

 私の行いの結果は全て神からプレゼントされているもの、プラサーダであるとみなす態度のこと。例えば食べ物の好き嫌いなく、頂いたものは食べなくてはいけない。

 イーシュヴァラ・アルパナ・ブッディ

 行いがダルマと調和し、ダルマがイーシュヴァラであると見なされ、私の行を神に捧げる態度。

<感想>

カルマ・ヨーガかサンニャーサの人生かで選択に迷うアルジュナですが、解説も無く、詩だけを通して知識を学んでいることを考えたら、全体を数週間で理解できるということが、ダルマに生きてきたアルジュナだからこそ出来たのだと思いました。それを間違いなく理解できるようにと、代々の先生たちが解説を加えてくださり、Bhagavadgītāとしては今のような大作になったのですね。とてもありがたく、感謝致します。

アルジュナが魅力的だと思っているサンニャーサのライフスタイルについて、第4章の22番の詩でもそこで必要とされる「偶然得たもので幸せ」「対極の出来事に影響されない」ことが述べられていました。今回はそれに加えて、十分な内側の準備がないとサンニャーサとしてモークシャを得ることが難しいことがより明確になりました。サンニャーサを選ぶべきかどうかはその人の適正によるとはいえ、まずはカルマ・ヨーガで成熟の機会を得るべき人は多いのだろうと思いましたし、ヴェーダの文化では隠退準備期を経てサンニャーサのライフスタイルに至るというのも、ある程度長い人生を通して成熟してきたからこそ出来ることで、とても理にかなっている仕組みだと思いました。

यदृच्छालाभसन्तुष्टो द्वन्द्वातीतो विमत्सर: |
सम: सिद्धावसिद्धौ च कृत्वापि न निबध्यते || 22||

yadṛcchālābhasantuṣṭo dvandvātīto vimatsaraḥ
samaḥ siddhāvasiddhau ca kṛtvāpi na nibadhyate BG 4-22

たまたま得たもので幸せであり、嫉妬から自由であり、成功や失敗に関して等しく受け入れる考えを持ち、対極の出来事に影響されない人は、行いをしていても束縛されません。

Bhagavadgītā5章の方で、避けたい状況でもイーシュヴァラに与えられているので、逃げるべきではない、と言うところが、過去の経験からもその通りだと思いました。仮に逃げたとしても、結局同じ課題にぶつかリます。状況を受け入れ、どう乗り越えられるのかを考え始めると、自ずと与えられているものに気づくことができますし、そうして成熟にもつながっていくのですね。

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回答

そうですよね。日本でも60歳定年でその後に学びの機会があれば、サンニャーシーは賞賛される生き方ですよね。しかし、十分に成熟せずに社会からの逃避でサンニャーシーになると、自分を取るに足らないちっぽけな存在として見下げているために、嫉妬から怒りや偏見でそこにないものが見え、実際にあるものが見えない場合や、その時代や国の文化や法律や社会的な常識が分からないために、解説通りでしか覚えられず、日本の神々を崇める文化もヴェーダとは違うものとして捉え、他のスワミの話や表現が僅かに違うだけのものも間違ったものと捉え、現実にある法律や科学的に明かされた事実や他の聖典と整合性を取ることができず、思考の柔軟性もないので同じことを違う表現で言われていることに共通性を見出すことができず、間違いと認識して否定してしまいます。

また、引退した後に結婚したり博士課程に行く人もいますが、それは俗世に執着があったためであり、サンニャーシーとは言えません。

ラマナマハリシという聖者は、子供の頃に家を出てアシュラムに籠り、隠退して瞑想によってモークシャを得ましたが、近所の子供達から石を投げられ罵声を浴びせられても動じることなく座り続け、地下室に移されてからは、足が床ずれになりウジがわいても座り続け、痛みに耐えながら瞑想を続けられるくらい、何にも動じずにいられる落ち着きがあるからこそモークシャを得られたのです。たとえ最初は逃避であったとしても、世俗的なことに全く興味が持てないくらい成熟した子供だったので、真実だけを求める精神的な強さを持っていたのです。そして、理解した後、社会的なことは知らないとしても、余計なことは一切言わずに真実だけを伝え、生涯を過ごしました。そして、周りに聖典の言葉を辞書のように知っている学者や研究者が集まり、その言葉の意味をラマナから教わり、ラマナは彼らから聖典の言葉を教わり、晩年は聖典の方法論を使って教えることができた聖者です。最初はブランマニシュタ・私自身の本質、宇宙の本質が何であるかを明確に理解してる人だけでしたが、シュローットリヤ・知識と伝統的な方法で教授を受け継いだ人になり、その二つを兼ねそなえた存在・グル(先生)になったのです。

誰もが瞑想を続けてそうなるわけではなく、隠退してモークシャを得られるわけでもありません。忍耐強さがなければ座っていることすらできません。

現代社会では、忍耐のなさで社会から逃避する人たちが増加し、仕事や結婚を放棄してインドに放浪したり、何もしないことだと勘違いしている人が山ほどいます。中にはカルマヨーガを無料奉仕の意味で使っているところもあるので、与えられている役割をきちんとこなすことを放棄してしまう場合もあり、やはりこれに関しても勘違いが多くなってしまっているところです。

そういう間違った理解を払拭するのは大変なことですが、正しい教えを社会に留まり義務を果たしながら、きちんとした場所で学べる機会が設けられ、日本でも皆さんに受け入れられることを祈ります。実際に国立大学大学院では、サンスクリット語講座やウパニシャッドの分析をしている講座は多くあります。しかし、伝統の真実を学んでいるわけではないので、間違った歴史や解釈になっている可能性もあります。

戦前は国学として古事記などが学校教育に取り入れられていた時代もあり、世界から尊敬される日本人の忍耐強さと繊細で丁寧な仕事や、相手を思いやり気遣う献身的な国民性を持ち調和し幸せでいられること、自然のありとあらゆるものに神を見て喜べる、そんな当たり前のことが理解できる人たちが増えて、皆が本来の日本人らしさを取り戻していけることを願っています。

どの聖典でも、勉強を終えて教え始めた人が、完全な知識ではないのに全てを知っていると思い込んでしまい、社会で活躍している人の方がモークシャを得ていることを知らずに、教える人の傲慢さを描写するところがあります。自分はまだ知らないということを認めて受け入れ謙虚になって、相手の方が全てを理解していることを知り、逆に教えを乞う態度を持てれば、知識は完成すると言うことも教えてくれています。

言葉は全て知っていても、ただ話しているだけの人もいますし、識別なく視界が全く開けていない主観的な間違いばかりを見続け、嫉妬と怒りで狂気になる人もいます。

そう聞いたから、書いてあるからと、事実や根拠と照らし合わせることをせずに、時代やその国の文化とはかけ離れたことをそのまま教え、ダルマに反したことを話してしまう人もいます。社会で活躍し貢献するカルマヨーガを飛ばして隠退して聖典の学びに没頭しても、人間関係のコミュニケーションや社会の一般常識の感覚が乏しいため、日本の現代社会がわからずに浮世離れしてしまう場合もあります。

その時代やその国の文化に合わせた教え方が必要であることも解説されています。

やはり、社会でそれなりに活躍した上で隠退することや、事実との整合性を取りながらの解説が大切であると、つくづく感じます。

それが社会にとどまりながら、逃げることなくやるべきことをするカルマヨーガであり、それにより適切な物事の見方や考え方を得て、人の役に立つことだけを話す成熟した人間になることができます。そうして幸せに生きている人が、人生の最後に隠退してゴールを得ることができるのです。もちろん、引退することなくモークシャは得られるものです。

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