語彙力は大切
女優の芦田愛菜さんが、先日舞台挨拶か何かでお話しされていた「信じるということ」についての言動は素晴らしいものがあり、年間180冊以上の本を読むことでも知られ語彙力が豊富にあり、自己分析能力も高く、あまりの人間的な優秀さには尊敬の念を抱くばかりです。
語彙と言うのは実際使っていても、その言葉の意味を本当に正しく理解しているのかというと、案外わからずに一般的に使われている表現もあります。
言葉は一般的に使われている意味と辞書で引く意味が同じであっても、過去に記憶した印象と重なり、間違った解釈で主観的な捉え方をする人もいます。
私もそこまで語彙力があるわけではないので、情報を発信する責任としては、なるべく辞書で引いて自分の捉え方と誤差がないかを確認するようにしています。
それでも全部が全部ではないので、間違っていることもあるかと思います。
間違いがあれば、ご指摘頂けると幸いです。
日本語というのは、たくさんの言葉がありますが、なるべく一般的に使う言葉を採用した方が、多くの人が理解しやすいですよね。
案外正しく理解していない人の方が、難しい言葉を並べるだけで、その中身を説明できない人、または間違った解釈をしている人も多いのです。
さらには、同じ言葉を主観的に間違った捉え方をして、被害妄想を重ねて一般的な言葉を話している相手に対して嫌悪感を抱いたり、良い悪いの分別がつかずに傷つけるようなことを言ったり、暴言暴力にも発展してしまうこともあります。
その理由は、客観的な捉え方、見え方ができないことが一つの原因です。
客観的というのは、一般化された誰でも共通の認識ができるものです。
主観的というのは、その人がこれまで経験してきたこと、知っていることだけを目の前の状況や人に重ねて捉え、その人一人の見え方や感じ方のことです。
社会で活躍する多くの人たちが、客観的データをもとに仕事をして人と接することが多いと思いますが、客観的データをほとんど使わずに主観的な捉え方で行動して好き嫌いで仕事を続けてきた人も、意外と多いものです。
そうすると、客観的な文献の話をしていても、客観的データを伝えていても、客観的な学問を通して説明していても、客観的とは一体どうやって何をしているのかと言った本当の意味がわからないために、主観的にこれまで経験してきたことが客観的だと思い、それを主張して主観的に捉えて苛立ちや怒りが湧く人もいるのです。
反対に、文献やデータに捉われすぎて、それ通りの言葉をそのまま使わないと理解できなかったり、文章の主語と述語の使う場所が入れ替わったり、他の言葉に置き換わると理解できず否定してしまう場合も、主観的な捉え方です。
視野が狭いと、相手の話を客観的事実として聞けないので、その人の過去の経験が重なり、主観的な捉え方になります。
同じことを正しく話していても、人が変わると嫌悪感や嫉妬で認められず否定するという現象まで起こります。
そう言った人というのが間違った認識からいじめられて傷ついていると勘違いしたり、相手が悪いと苦情や文句を言い続けていたりします。
クレーム処理担当の方はお気づきかと思いますが、会社の意図することとは全く違う捉え方で怒りで怒鳴られ、理不尽な文句も多く、それでも謝り続けるしかないことにうんざりしている人も多いのではないでしょうか。
そもそも、一般化された情報に対して、傷つけているのも、その怒りや苦情を言う人自身の間違った認識ですし、相手が悪く見えるのもその人の歪んだ捉え方がそう見えているのですが、そういう人にそれを伝えても、一般的なことを客観的データから説明しても、言ってることはわかります、でもあなたが悪いです、と堂々巡りになってしまいます。
医療の世界でも、患者さんの認識や理解度というのは千差万別です。
なるべく噛み砕いた言い方で、客観的データから見てあなたはこうですよ、という説明をするのですが、もちろん理解できる人の方が多い中、主観的な間違ったものの見方をする人というのは、自分に対する怒りを医療従事者に向けることが多いので、些細な認識の違いから大ごとに発展するケースも少なくありません。
そう言った場合にもきちんと論理的に説明でき、主観的な判断だけではないことを証明できるよう、様々な客観的データから物を言うことが大前提にあります。
これをいくら言っても、やはり言葉の理解をする努力や、客観的データを集める努力をしてこなかった人にはどうやっても伝わらないので、困り果てる場合もありますよね。
そう言う場合であっても、まずは必要な情報を全て説明します。
何でも説明同意書が最近は必要になっているのも、そのためです。
相手が理解できなくても、それ以上説明しようがないことが多いため、説明した内容と、説明は受けたと言う相手の認識が必要なのです。
もちろん、それでは理解できず間違った解釈になり、攻撃的な態度にでる場合は、穏やかに俯瞰しながら、理解できない説明だったことを謝罪します。
小中学生でも理解できる平たい言葉で、再度説明します。
それでも間違った解釈をして怒りを持ちます。
さらには、箇条書きで、できるだけ短い言葉でポイントだけ絞って伝えます。
それでもわからなければ、その中の一つだけでも理解できるように、再度大きな声ではっきりとポイントを繰り返します。
それをしても怒りで説明の途中で遮り、最後まで聞けない人もいます。
それでも分からずに苛立ち怒りを持ったまま、間違った解釈をする人には、時間を置くことです。
ただし、これが医師や保健師国家試験を受験するとか、そのための大学に入りたいとか、絶対に変わらない普遍的なことを理解したいと言う場合には、その人がその水準まで正しく物事を理解する努力をしない限り、大学からも国家資格も普遍的なものからも、その人の基準に合わせることはできません。
ただただ、そこを目指して努力することのみです。
何にせよ、伝える側としては説明責任が問われますので、必要なことは説明するのが先決です。
どうやっても日本語を正しく理解できない人もいるのは、私たちにはどうすることもできませんので、本人が歪んだものの捉え方をしていることを認めない限り、理解できるための努力をすることはないですので、いつか理解できるよう成長することを祈るばかりですね。
正しい理解をしていくためには、言葉を正しく理解することはとても重要なことです。
説明する側も、それを捉える側も、今より少しでも正しい物事の見方と理解を常に持てるように努力を続けていきたいものです。
いずれにしても、人間の成長というのは、正しい物事の捉え方と理解です。
実際に主観というのは、なくてはならない情報収集のための大切な道具であり、客観的データをもとに人や物事を判断して、さらにそれを具体的に提供するための道具であり、誰にでも広く理解し一人一人に合わせて対話できるよう、視座を上げ下げできる必要不可欠で大切な道具です。
間違った捉え方をしているその人自身が、自ら間違いを認識して正す努力をしない限り、成長は難しいですので、その人を変えようとするよりも、人それぞれの理解力を理解する広い視野を持つことの方がより大切です。
まずは自分自身がそうあるよう、日々努めていたいですね。