偏見というのは、決して全くなくなるというものではなく、生きてきた場所も何もかも人それぞれの培ってきた記憶が違うので、誰にでもあるものなのです。
例えば、医療現場で暴れたり罵声を浴びせる患者さんも少なくありません。医療者側は困り果てて厄介な人という偏見を持つこともあります。しかし、嫌だと思っていたとしても、病気や怪我をしている人をみないわけにはいきません。
嫌だから避けることや拒否することはできないので、その人には様々な背景があることを理解して対応することが、誰にでも同じものを見ることであり平等に接することです。
攻撃的な人に攻撃で返すと、余計に興奮しますので、あくまでも冷静に必要なことを伝え処置をして理解をしてもらうことなのです。
ある程度話を聞く姿勢を持つと、興奮している人であっても聞いてもらえることで安心することもありますので、ゆっくり落ち着いていきます。
そのような人でも、本当は自分を満たして欲しいという子供のような愛情表現であり、そういう方法しか知らないのです。
また、人間関係の中でも勝手な思い込みや偏見で陰口を言う人も多いですよね。
アメリカに10年住んで仕事もしてきた人が、「アメリカにいたときは」や「アメリカでは」と話をすることがよくありますが、それをアメリカかぶれとか、また自慢話と捉える人もいます。
しかし、それはその人にとってはアメリカでの記憶が話題のベースになるのは、今日本にいる私たちが日本の話をするのと同じです。
東大出身の人が東大の話をするのも、自慢ではなくその人にとっては東大しか知らないので当たり前のことなのです。
無愛想に見える人は、意外なまでに優しい人も多いです。
話してみなければわからないことはたくさんあります。
偏見を重ねて思い込みや自分の記憶を通してジャッジして決めつけたり、その偏見で人を傷付けたり避けたり、見当違いなことを言ったりしていては、自分自身の成長にはなりません。
私にはこう見えるけど、本当がどうかの真相を確かめるために、その人に確かめたりしてコミュニケーションを取りながら相手を知ることで払拭されていき、知らなかったことを知り新しい情報になっていくこともたくさんあります。
よく、オープンマインドと言いますが、自分の思い込みで見ていないかを、相手とコミュニケーションを取り話をすることで間違っていたことや、その人の考え方や記憶についても理解でき、視野が広がり、また一つ人の考え方を知る機会になり、自分の情報量も増えて想像力や共感力の素となっていきます。
嫌悪や苦手で避けたり感情的になる時というのは、概ね自分の思い込みや偏見が重なっていることがほとんどですので、その時に自分の考えをよく見ることが、視野を広げてより確かな方に理解を進めていくことができます。
自分を観るということを常に心がけていきたいですね。
まずは自分を観ることを繰り返して、自分の感情や考えを理解すれば、相手の感情や考えも理解するように努力することができます。
自分の考えをしっかり見てあげられるようになると、相手の話もしっかり聴くことができます。
未熟な自分を理解できれば、人の未熟な考えもよく分かりますから、共感して傾聴して理解することができるようになるのですね。
それでも人は皆考え方が違うので、話しても難しい場合もあります。
思考が閉じている人は、認知の歪みもあることが多いので感情的になりやすかったり、不機嫌にもなりやすいですし、自分を見ることよりも相手が思い通りにならないことへの不快感の方が先ですので、自分の知っている範囲内の理想通りの枠の中に入れたくて、相手を変えようと色々言う人もいます。
より気づいている方が冷静に穏やかに謝ることも必要ですし、その場を収めることができます。
自分で自分に気付こうと思える人は、まず相手の話を客観的事実として聞きますので、感情はあまり挟まないですし、挟んだとしても相手に顕にはしません。
客観的事実として聞くことで、視野が広がり情報量も増えていき、コミュニケーションスキルも上がっていきますので、是非感情が湧いた時には、自分の偏見だけで見てはいないかを自分で観察してみて下さいね。
そうは言っても、人間皆違いがあるのが関わりあいの楽しさであり、この世界の美しさですからね。
どんな人でも、認め合えると良いですよね。