KAMALA YOGA BLOG

行いを祈りに変えるカルマ・ヨーガ

カルマ・ヨーガもそのゴールであるモークシャも、今していることは何ひとつ変わりません。

その中で、一つ一つの行いを思慮深く丁寧に、ラーガ・ドヴェーシャを識別して、ダルマの選択、イーシュヴァラに捧げる儀式として祈りに変えていきます。

そして、ありとあらゆるものにイーシュヴァラを見て、小さな個人の私が足掻かなくても、全てを運んでくれていることへの感謝と喜びに満ち溢れた生き方に変わっていきます。

バガヴァッドギーター第3章は、カルマ・ヨーガの話題です。

10月9日(土)からスタート。

毎週土日早朝5時ガネーシャプージャー後クラス7時まで。

ダクシナー制

お申し込みはメールにてお待ちしております。

kamala0yoga@gmail.com

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रागद्वेषवियुक्तैस् तु विषयान् इन्द्रियैश् चरन् ।

आत्मवश्यैर् विधेयात्मा प्रसादम् अधिगच्छति ॥ २-६४ ॥

rāgadveṣaviyuktais tu viṣayān indriyaiś caran |

ātmavaśair vidheyātmā prasādam adhigacchati || 2-64 ||

しかしながら、物質世界の中で動きながらも、感覚器官を自分の統制下に置き、

好きと嫌いから自由を得ていて、考えが統制されている人は、

穏やかさを得るでしょう。 BG2章64番

「人の感覚機関が追い求めることの習性は、その人のラーガ・ドヴェーシャ、好きと嫌いに関してです。けれども、ムムクシュ、つまり、探求者だとしてみましょう。つまり、モークシャを求めている人だとしてみましょう。そのために、自分自身の知識が必要とされるので、その人の探求の全てが、ラーガ・ドヴェーシャによって決めつけられたりされ得ません。・・・中略・・・

ムムクシュの感覚器官は、ラーガ・ドヴェーシャから自由です。つまり、それらはラーガ・ドヴェーシャによって後ろから支援されてはいません。なぜなら、ムムクシュは、カルマ・ヨーガの人生を送っていますから。そのような人々は、世界から退散したりしません。彼、彼女はどこへ行くでしょう?ムムクシュは、感覚の対象を体験しながら世間に出てゆきます。チャラムという言葉は、動くという意味で、ここでは『到達すること』や『行くこと』を意味します。・・・中略・・・『例えば、ブラフマンに到達する』という表現は、どこかへ辿り着くという意味での『行く』や『動く』という意味ではなくブラフマンを理解するとか知るという意味です。

これは、その人の追い求めることの全てが、ラーガ・ドヴェーシャによって規定されているのではなく、ダルマとアダルマによって、つまり適切なことか、そうでないかによって規定されていることを意味します。その人自身が求めることを決めるのであって、その人の好きや嫌いによってあおられてはいません。ラーガ・ドヴェーシャが決めていません。

あなた自身と感覚的な探求の間に、あなたのラーガ・ドヴェーシャが入って来ず、感覚的な探求の決定要因は、純粋にダルマとアダルマです。ですから、あなたは、あなたの意思によってのみ考えが動く人となります。別の言葉で言えば、あなたは『よく整った人』です。そう言った人が、ラーガ・ドヴェーシャの効力をなくする目的だけでカルマ・ヨーガの生き方をしているカルマ・ヨーギーなのです。

プラサーダは、なんであれイーシュヴァラからくるものであると、すでに私たちは見てきました。けれども、プラサーダには、また他の意味もあります。人の手の内に感覚器官があって、その人がラーガ・ドヴェーシャの支配から自由なとき、その人の考えに起こることで、快活さ、満足、穏やかさと言った意味がプラサーダにはあります。満足がその人と共にあります。考えが安定していて、掻き乱されたり、自己不満がほとんどありません。その人の知識は、スティラ、安定していて、それがとどまります。取り組まれるべきラーガ・ドヴェーシャが、ギーターの全体の心理学です。」

 

प्रसादे सर्वदुःखानां हानिर् अस्योपजायते ।

प्रसन्नचेतसो ह्याशु बुद्धिः पर्यवतिष्ठते ॥ २-६५ ॥

prasāde sarvaduḥkhānāṃ hānir asyopajāyate |

prasannacetaso hyāśu buddhiḥ paryavatiṣṭhate || 2-65 ||

考えが穏やかであるとき、落ち着いている考えである人の知識は、

すぐに成し遂げられるので、全ての苦しみや悲しみの破壊が起こります。 BG2章65番

「考えが穏やかであるとき、全てのドゥッカ、苦しみや悲しみは破壊されますが、ドゥッカの原因自体は去って行ったりしません。それらは単にドゥッカを起こすことができないだけです。体は、物理的な痛みを体験するかもしれません。しかし、考えがプラサンナ、穏やかですからドゥッカはないでしょう。穏やかな考えとは、ラーガとドヴェーシャの効力がなくされたことを意味します。好ましい状況も好ましくない状況も反動を起こしたりはしません。

全てのドゥッカは破壊されると言われます。なぜなら、自分自身の本質は穏やかであるからです。そして、その穏やかさが考えに現れます。考えは、ただただラーガ・ドヴェーシャによって息苦しくなります。そもそも、本質である自分自身の充足、つまり、アーナンダ・スヴァルーパが考えに現れることが、ただただ、ラーガ・ドヴェーシャによって抑えられます。ラーガ・ドヴェーシャが効力をなくされたとき、アーナンダは妨げられず考えは穏やかです。ラーガ・ドヴェーシャがまさにアーナンダ、充足を抑制します。ドゥッカの破壊が生まれる、ウパジャーヤテー、と言われました。

穏やかな考えには、知識はそれほど遠くない

単に穏やかさが、どのようなドゥッカも破壊してしまいますか?いいえ。全てのドゥッカの破壊は、自分自身の知識がある時のみ起こり得ます。穏やかな考えを持った人にとって、ドゥッカは去ってしまいます。

穏やかさを得るために、あなたはあなたのラーガ・ドヴェーシャを注意深く処理しなければなりません。何であれ必要なことは、カルマ・ヨーガであれなんであれ、あなたが従わなければならない何か(鍛錬や生き方)です。穏やかさがあるときだけ知識がとどまります。つまり、全ての曖昧さや疑いから自由になって、知識が明らかになることを意味しています。そうでなければ、あなたはいつもあなた自身の知識に疑いを持つでしょう。『こんな考えで、どんなふうに私が知っていると、言えるでしょう?』と、あなたは言うでしょう。考え事態が全ての種類の疑いを作り、そして、それが問題です。

自分自身の知識のベースとなる穏やかさを、考えが得なければなりませんし、そうあるために、考えはラーガ・ドヴェーシャから自由でなくてはなりません。それで知識が定着するので、全てのドゥッカが去ります。穏やかさは、その人の知識を全ての妨げから自由にするための条件であり、また、その知識のために、悲しみの全てが去って、その人はモークシャを得たと言われます。」

引用文献:https://www.amazon.co.jp/BHAGAVADGITA-HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第2章-Swami-Dayananda-Saraswati/dp/B07X6D1T48 P321〜326

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