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言葉の秩序と知るための手段・プラマーナ

言葉の秩序と知るための手段・プラマーナ

第3章に入って、「ヴェーダの教えるヨーガの知恵」1)と言う表現が出てきたので、この一文にものすごい秩序が含まれているお話と、「ヨーガの叡智」「ヨーガの教え」とは言わないということをお話しすると、辞書で意味を調べても同じ意味に思えると言う意見があったので、その微妙な違いについてお話ししました。

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【知恵】
「1 物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。『―を借りる』『生活の―』
2 (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。」

【叡智】
「1 すぐれた知恵。深く物事の道理に通じる才知。
2 哲学で、物事の真実在の理性的、悟性的認識。また、それを獲得しうる力。ソフィア。」

引用:goo 国語辞典より
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知恵は一般的にも使う言葉ですが、叡智と言うと、一般的な知恵も含んでいますが、さらに優れた物事の道理を判断することを現していますね。
ヴェーダの最後の結論を含んだ表現になると思うので、「ヴェーダの叡智」なら違和感なく使えます。

ヨーガと言う言葉は動詞で、ヴェーダの前半の章で教えられている生き方のことです。
間違いを識別して過度な執着を手放し、対極する物事に影響されず、偏見なく平等で公平な見方で落ち着いた平静さを持ち、やるべきことを行う中に喜びを持ち、物事を正しく捉え、あるがままに全てを見るための方法が教えられています。
そして、ヴェーダの最後の教えである自分自身の知識、真実を理解できるための道具である考えを綺麗にするための生き方がヨーガです。

文章の構成や言語の成り立ちもダルマですので、正しくそれを読み取って、間違った使い方にならないように注意深く丁寧に扱わなければなりません。
全部が理解できていれば、「ヨーガの叡智」や「ヨーガの教え」とは言わないことも分かりますし、まず聖典の中では一度も使われていませんので、先生から教わらなくとも読み取れるものです。

ただ記憶するだけではなく、言葉の成り立ち、言語的な秩序を理解する能力がとても大切です。

ですので、教える人はもちろんのこと、教わる人もまた、微妙なニュアンスの違いで表しているものや、文章の構成を読み取り、今どの部分でこの言葉が使われていて、その背景にはこのような意味が含まれているということを理解できる知性を養っていくのが、社会での学業や仕事を通して学び得られるものなのです。

至福と幸福の意味も微妙な違いでほぼ同じですが、これについても聖典で教えられていて、伝統の言葉を正しく扱える先生方は必ず教えていますので、正しく理解している人はアーナンダ=幸せ、幸福の意味であり至福とは使いません。
わずかな使い方で、その言葉が意味する到達点が変わってしまうと、本当の意味でのゴールに導くことはできなくなることもあります。

言葉の持つ力をよく理解することが大切です。

言葉を発する時には、自分がそのことについて、なぜどうしてどのようにするのか、どのような効果が得られるのかと言った原因と結果とその根拠を説明できなければ理解しているとは言えないので、知らないことを発するものではないと言うことや、知らないことは知っている人から教わること、その人にお願いするなどして協調性を持ち、本当のことを発する慎重さも大切な能力の一つであり知性です。
自分の考えに定着していないことは、どこから知ったことなのか、自分の発する言動に左右される人々が混乱を来たさないように、正しく情報源を明示し、文献の出典を付けたり、誰が言っていることなのかを明確にすることも大切なことです。

著作権法によって、無断で文献の引用をすることは禁じられており、違法行為になり罰せられます。ブログも同様です。
一般常識に欠けてしまう人が無断で人の発信や文献を使ったり、動画を第三者に無断で公開してしまうため、法律で規制されています。
引用する場合は著作権法に基づいた正しい方法がありますので、誰が言っていることなのか、どこの出版なのかを明確にしておかなくてはなりません。
ブログの引用はU R Lリンクをそのまま貼付することで明確になり、その情報を発信し正しく教えられる人に誘導することが大切です。

知らないことをまるで自分が知っているかのように発信してしまうと、自分の知らないところで拡散し、知らない人を混乱に導いてしまいます。

最初はわからないこともたくさんありますが、これから気を付けていきましょう。
だんだんと理解できるようになっていきますので、日々の言葉の使い方、表現、客観性、物事の道理から外れていないかをきちんと見ながら発言していくように心がけましょう。

聖典や先生の言っていることを理解せずに発信する人もいますが、実際の行動はそれに反していたり、他者から認められるため、賞賛されるために教える人もいます。

教える人は、きちんとその人その人の思考を読み取り、まずは間違いを破壊していかなくてはいけないので、必ず対話を繰り返して、本人に上乗せしたものを識別させて解消し払拭できるようにしていかないと本当の理解はできないのです。
間違った物を学ぶと、それを払拭することに苦労して混乱し、苦しくなることも聖典の中で教えられています。

本当に理解して教える人は、人の思考能力のレベルや心理状態も読み取れますので、その時その人に合ったことをアドバイスし、方法を教えたりしながら正しい理解に導き、間違っているものも真実でないものも、根こそぎ破壊して根絶させるのが、ヴェーダーンタを教える人の役割です。

なので、対話なしに教えられる物ではないのです。

ドゥルヨーダナのように、アルジュナを蹴落とすことに執念を燃やし周りを自分の味方に付けようとする、幼少期の問題を抱え歪んだ物の見方をする人もいます。自分より弱い立場の人たちを利用して取り巻きを作り、自分は凄いのだと思いこませて賞賛され優越感に浸り、自分に都合が悪くなると徹底的に相手を非難して悪口を吹聴してまわり、自分の方が正しいと思わせ相手を蔑んで自分が優位に立ち、他者から自分を認めさせようとする人もいます。
強く大きく見せようとしますが、実際は中身が伴わずに劣等感や空虚感を誤魔化すために誇大的で、利用価値のある人には媚びて物をあげたり、恩義を着せて良い人と思われるように演技をする人もいます。

独学で学ぶ人の中には、人から指導されることを嫌がる人もいます。
間違いを指摘されたり、成長のためにできるところを伸ばそうと指導を受けても、間違った自己イメージから自己非難をするため、怒られている、非難されていると受け取り、自分を傷付けていく人や、それを防御するために人に攻撃的になったり、その人を嫌い避けて与えられた状況から逃げる人もいます。
少しでも注意すると、中身は脆く崩れやすい心を持っていて、精神的に混乱し感情的に衝動的な言動や行動になりますので、十分注意が必要です。

冷静な判断で落ち着いた態度で、きちんと話をすることを繰り返して、その人の個性をしっかり把握し、偏見を重ねていることに気付かせてあげることが大切です。

こういうことも全て聖典が教えているので、全部を理解していれば、その中でこう言われているということと、そういう時はどうすれば良いのか、タイミングを見ながら教えられていることをきちんと正しく伝えて、その人の成長を祈って間違いを認識させてあげながら、真実の幸せに導いていくことが大切です。

教える人が巻き込まれて一緒に偏見を重ねて揺らいで見てしまっていては、人を成長させるどころか、先生がこう言ってたからいいんだ、と自分を正当化し、ますます間違った方向に行きかねません。
ですから、人も事象も状況も何もかもに偏見なく平等にあるがままに見て、聖典の言葉によって正していかなくては教えることはできないのです。
落ち着いた冷静さで人の心を読み取る洞察力がないと教えられませんが、それが理解できない人が教えているのが今も昔も変わらずいて、教える人の性質についても正しい人とそうでない人について聖典の中で言われています。

安易に分からずに扱うと、間違った方向に導いて人の人生をも崩壊させてしまう働きにもなりかねません。
責任感を持って生きてきて、倫理観と道徳感を持っている人に教えるべきことも聖典は言っています。

数学でも、計算式の中で一つでも間違っていると答えは正しく出せませんよね。
数式と答えをただ暗記するだけではなく、その背景にある計算式を正しく理解しなければ、どうしてその答えがそうなるのかきちんと教えられませんし、それを教わらずに答えが間違ったまま生きていれば、いつか歪みが生じ、真実の理解にはつながりません。

また、言葉をただ記憶して教えるだけでは思考の柔軟性や想像力がないので、覚えた通りの順番でしか話せないので、順番が入れ替わると混乱したり、人の感情が分からない人や、想像力が働かないため偏見で人を見て主観的な判断をします。

文脈を読み取れない人や、中身を読み飛ばして理解したと言う人もいます。

間違っているものをそのままにしておかず、正していけるように、社会でも道徳観念を持った指導者のもとで規範に沿って仕事をすることも大切ですし、ヴェーダーンタを理解するためには、正しく理解し教えられる先生のもとで学び、掛け違えたボタンを全部外してかけ直す努力をしていくことです。
教わる人の思考レベルや癖を見抜いて、適切な方向に導いてあげられる人が本当の先生です。

非難や蔑んでいるのとは違い、個々に合った学習能力を身に付けていけるように社会的な支援している人たちはたくさんいます。その人の思考能力や習慣などに合わせて、どうしたら知的レベルが向上するのかを考えて教育や研修を受ける機会はたくさん提供されています。
精神的な混乱がある場合は、先に治療をした方が良いことも言われています。

ヴェーダーンタを学ぶ以前にヴェーダを学びながらでも、そういうものを利用しながら、精神的な混乱を落ち着かせ知的レベルを向上させて、祈り深い優しさで貢献し、自分のわずかな力が社会や地球と宇宙全体につながり影響していることまで視野を広げて、段々と成長していきながら、言葉が働くようになっていくものです。

理解していないのに理解した気になるものです。
全体が見えなければ理解したとは言えません。

聖典は人が喜ぶことばかりを並べている物ではなく、限りのある喜びも悲しみも二極化していることを教え、どちらにも平等に偏見なく冷静に公平に見ることができる落ち着いた人が、その綺麗な考えに聖典の言葉が働き、最後の結論が理解できるようになっています。

社会の秩序と聖典の教えが矛盾しないように、一つに繋がっていることを正しく教えられなければ、人を成熟に導くことはできないですし、成熟がなければ真実を本当の意味では理解させてあげられないのです。

間違った見え方を完全に破壊し、あるがままに見るように導いて、真実でないものを一切合切根刮ぎ破壊して、真実を完全に理解でき、二度と戻らないように知識を完成させるのが教える人の役割です。

ですので、正しく教えている人の言葉を本当に理解している人が見たら、どの文献のどの部分で言われていることなのか、すぐに見分けがつくので、主観的な間違いを上乗せしてあれこれ非難や文句は起こらないのです。

もちろん、自分自身の知識は全ての人のことであり、誰もがすでに幸せであることを気付かせてくれる教えですので、社会的役割には関係なく誰もが学べるものです。
しかし、教えるとなると社会的、言語的な道理も理解しないと、正しく教えられるものではないので、社会でダルマに従って生きることが大切なのです。
本当に理解できていたら、その秩序も理解できるようになります。

なので、伝統の教えを正しく受け継いで、言葉を正しく扱える責任感のある人にしか教えることはできません。

人間の思考というのは、実に曖昧なものです。

伝達ゲームをしたことがある方は分かると思いますが、1人目の人が伝えたことが10人目の人まで正しく伝わることはほとんどありません。
人の記憶力や推論の曖昧さは、トラブルの原因にもなります。

しかし、物事の秩序はそうであっては困るのです。

そのために、法律や規則、ルールなど、社会でもダルマを言語化しておくことで誰にでも共通の認識になり、何が良くて悪いのかが明確にされていることも多いですよね。

ヴェーダの教えていることを教わった通りに正しく理解し伝える能力が必要なのです。
自分の考えのフィルターを通して、違うことに変えてしまわないよう、社会でも道徳的に規範に則って生きる誠実さが必要なのです。

そうして社会で生きていれば、言語の秩序も自然と身に付いていくので、少しでも違うと違和感があるものです。

言語の成り立ちも、社会生活の中で社内規則や法律、説明書や同意書など読む機会は多々あります。
社会生活をこなしていく上で、様々な知識と技術を身につけるために勉強をしていくと、文章の構成が読み取れるようになります。

一般的には、“概論、各論、総論”や、“初めに、目的と方法と考察、結語・結論”と言う構成になっていたり、使われる言葉も同じ言葉がどの部分ではどういう意味になって、こういう場合にはこの意味になるなど、教わりながら理解していくことができます。

一つの言葉の背景には、他の言葉とのつながりや多くの意味を含み持つ完璧な秩序が隠されています。

今までの思い込みで使っていたことや、捉えていた意味を全て綺麗に正していく努力も大切な知性です。

知るための手段・プラマーナ

今まで明かしてきたことを知る手段・プラマーナは、感覚器官と考えですが、それだけでは明かせないことがあることも、世界をあるがままに見ている人には理解できることで、聖典が教えることは、感覚器官と考えを超えた見えない世界をあるがままに知るための手段であり、言葉によって明かされているので、感覚器官と考えが届かないエリアを明かすための、言葉のプラマーナと言われます。
ヴェーダは言葉の集合体であり、それを理解するためにはダルマ・道徳的秩序に従い、社会に貢献しながら心を成長させるための方法を教えてくれています。心を広く成長させた人が、ヴェーダの最後の結論である自分自身の知識を理解し真の自由を得ることができ、そのための教えがヴェーダーンタです。
科学で明かせるエリアは、感覚器官と考えをプラマーナとして知識を明かしてきました。聖典の教えを加えることで、全ての辻褄が合い、全てがたった一つになります。
曖昧なスピリチュアルではなく、体型的で論理的な秩序に基づいて明かされています。

言葉の持つ意味は、必ず正しく聖典を理解している伝統の先生から教わらなければ、簡単に理解できるものではありません。
実際に、書店で手に入るものや、ネットで検索して読めるもののほとんどが、全く違う内容になっています。

伝統の教えと言うのも伝言ゲームと同じで、誰か一人が間違っていれば後世に伝わることも間違っていくので、全部を理解している責任感のある人にしか正しく教えられないのです。

理解していない人たちが攻撃的になったり非難することもよく知っているので、その人たちの成熟度や思考も見抜いて、そういう見え方の人たちはまたそれで進んでいくので仕方ないこともまた理解しているのです。
聖典を理解して扱う人は、聖典で言われていることと、社会的常識の中からお話ししているので、それに怒りや反発が起こると言うのは、間違った主観的な偏見を重ねているということを識別して、自分に問題があってそう見えるのだということをきちんと認識して、間違いを落としていくことがヨーガの生き方でありタパス・鍛錬になるのです。

現れている法律やルールといった秩序とつながっているものが聖典で教えられていることです。
聖典で言われていないことは、一般的な法律や学術的に明かされた科学的な物とつながっています。
ですから、現れている物事と聖典の見えないエリアを明かす知識は、離れた物ではなく、たった一つに正確に繋がっているのですね。
独自の解釈で社会的秩序と聖典の教える秩序が対立したり相反するものにならないように気をつけなければなりません。そのためにも、日頃から社会的ルール、規範や一般常識に沿って生活できるよう、落ち着いて冷静な人間性を養っていくことが大切です。
そういうことも全てが祈りになります。

誰もが最初から完璧な人はいませんし、理解できていたら生まれて来ませんので最初から全てを理解できる人もいません。

誰にでも様々な心の問題を抱えながら成長していくものです。

真実の自分自身に落ち着いて、何かに頼った幸せではなく、すでに幸せな自分自身に落ち着いて過ごせますように。

 

「ヨーガ」と「プラマーナ」アーナンダ」という言語の成り立ちや意味について、伝統のヴェーダーンタを正しく教えるMedha Michika先生のブログリンクを貼っておきます。
完璧なサンスクリット語を教えて下さる唯一無二の先生です。
ご参考にして下さい。

ヨーガ
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2016/11/yogah.html?m=1

ブラマーナ
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2015/04/pramanam.html?m=1

アーナンダ
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2017/02/anandah.html

引用文献:1)バガヴァッドギーター第三章 BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSE 著Swami Dayananda Sarasvati 訳 Swami Cetanananda sarasvati

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