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ヴェーダーンタのよくある間違った捉え方と社会生活での知的活動の大切さ

ヴェーダーンタ勉強会九十九里

ヴェーダーンタのよくある間違った捉え方と社会生活での知的活動の大切さ

Q1.「好き嫌いで選択しない」というのを、どうしても好きなことをしてはいけないと捉えてしまいます。社会から引退してサンニャーシーになった方が良いと思います。

A1. 好きで選択するというのは、あるがままのことに理想を上乗せして舞い上がったりして、現実を目の当たりにすると怒りや落胆することや、誰かのやっていることを羨ましく思い、自分の与えられている役割を放棄してでもそれをやろうとすることであったり、今の状況に不満があるから逃げたり避けたりして、他に求めることなどです。嫌いなこととは、個人的な間違った捉え方を上乗せして、あるがままのことが見えずに思いこみで嫌悪感を持ったり、勘違いで非難されたと捉えたりして、主観を重ねて物事を見て、やるべきことから逃げたり避けたりすることなどを言っています。

今与えられたやるべきことをこなしながら、より社会貢献になることを選び、人や生き物、環境のためなど全体に役立つことを積極的に行っていくことは良いことです。

Q2.ヨガ哲学の先生がエビデンスなんて移り変わるものだからそんなのに意味がないと言っていましたが、今私はエビデンスをもとに仕事をしています。それは間違っているのでしょうか。

Q3.仕事で目標や3ヶ月後にどうなっていたいかを上司と話して、誰もがこうなりたい願望とそのための行動と結果が出るかというサイクルの中で働いていると思いますが、これ自体がミッテャーで、このサイクルでは自分は満足しないというのは、結局結果が得られたとしても、また次の目標が生まれて、永遠と自分がゴールに辿り着くことができないということでしょうか。まずは、自分自身が個人を超えた存在であると気づかない限り、願望を持ってもサイクルの中にいるということでしょうか。

Q1.2.3.に対するA.

人が成熟していく上で、自分の置かれている分野で物事を段階的に目標設定し、達成していくことを繰り返すプロセスはとても大切な思考の使い方です。自分の考えや目標と結果とその達成までのプロセスなどをプレゼンすることも、自分の考えを言語化していくことで、思考が整理されていきます。そういうことを社内で実践していくことで、外部へのプレゼン能力を培っていくことができ、人に物を伝える能力も高まっていきます。

また、達成のための客観的な正しい情報収集や実践を通して小さな達成を繰り返していくことで、その情報が自然と自分の考えに根付いていき、一度でもそのプロセスを通して記憶し達成された物事は、同じようなプロセスを踏まなくても一瞬で思い出して、あれこれ考えなくてもすぐに判断できる能力を持つことができます。また、達成によって自己効力感を得られることで自信もついていき、ますます自分の能力を開発する努力ができます。

そういうことが自然と帰納法や演繹法になり、論理的思考が養われていきます。

ですから、何一つ無駄なこともなければ、整理された思考を養っていくためのプロセスは、聖典の最後の結論、人生のゴールである自分自身の知識を理解しモークシャを得るためのアンタッカラナシュッディ、内側の道具である考えを綺麗に整理するためのプロセスとして、社会生活において必要な取り組みであり、それもカルマヨーガになります。

人間には、社会の中でダルマを選択し社会貢献し続け、必要なものを得て好きな物事をやり続けているだけでは、全てはいつか色褪せ失い消えていき、本当に自分自身が満たされることがないことを知り、行き詰まる時がきます。そのため、人生のゴールがモークシャ、何かを得て安心や幸せなのではなく、幸せで安心な自分に落ち着くことを念頭に置いて社会生活を送ることによって、ますます充実した目標設定と結果を得ることができるようになります。もちろん、そこには全体の秩序であるイーシュヴァラへの調和をしながら、社会に貢献するために目標設定して結果を得るための努力を捧げますが、その結果はイーシュヴァラから与えられる楽しさや喜びを常に持ちながら、生き生きと日常生活を送ることができるようになるのです。

自分の能力として現れた知識も技術も、全ては個人の私の考えや体を通して現れたイーシュヴァラの栄光であることへの感謝を忘れずに過ごすことができます。

ヴェーダーンタの言う人生のゴール、自分自身の知識を理解するためには、ヴェーダには書かれていない社会生活の中で学ぶこともたくさんあります。全ての物事の道理が聖典で言われているわけではなく、ヴェーダーンタを理解する知性を養うために、学校教育などで学術的な論理的思考を身に付けたり、生理学や物理学や数学などの基本的な法則を学ぶことで、物事を正しく捉える思考能力が付き、知性が綺麗に養われていき、いつしかヴェーダーンタの理解につながっていきます。高校生で生理学や物理学の法則、数学などを学ぶことは、社会の中で物事の道理を理解した上で、実践的に働くことや日常的な営みの中でも判断力や理解力をつけていく大切なプロセスになりますが、何よりもイーシュヴァラという全体の秩序立った法則を完璧に理解する綺麗な考えを養っていくことにつながります。

生きていて学ぶことは、何一つ無駄なことはありません。

そして、何一つ偶然やまぐれといったことはありません。全て必然であり、見えないところもすべて法則で埋め尽くされています。

ですから、一瞬一瞬があらゆる法則によって隙間なく矛盾なく、全てが関わり合って完璧に回っているのです。

そして誰一人として無駄な人も生き物もいません。全ての人と生き物と物理的なものも全てが、一人でに出来上がったりしているのではなく完璧な秩序の中に存在を与えられています。

この体一つとってみても、人間が明かしている世界はほんのわずかです。ミクロ、ナノ、ピコ、フェムト、アトと、明かされている最小単位ですら極一部です。証し切れないさらなる未知の物質によってもそれらが円滑に働き、この肉体が支えられています。それと同様に、この世界も、現れたものや起こる現象の背景が見えなくとも、必ずそこには法則が働いていること、何一つ無秩序なことは起こらないと言うことを理解していくためには、一つ一つ秩序を使って分析していく能力が思考を綺麗にしていく上で大切になるのです。

エビデンスが意味ないというのは、ヴェーダーンタの本当の理解になっていない人の間違った捉え方で、ヴェーダとヴェーダーンタが一つのヴィジョンになっていないため、カルマヨーガの意味やイーシュヴァラが曖昧で部分的な理解のままになっているためです。

ヴェーダーンタでは「ヨーガの教え」と言うのはなく、ヨーガは生き方のことであり、ダルマの選択、調和した生き方、イーシュヴァラをありとあらゆる全てに見る整った綺麗な考えに成熟するための生き方の意味であり、それがヴェーダの前半の教えで、そのゴールは自分自身の知識を理解しモークシャ得ることを教えてくれるヴェーダの最後の教え、ヴェーダーンタ=ウパニシャッドのことです。

「哲学」というのは、人間の解釈が含まれるため、ヴェーダーンタの言うこととは異なり、真実である結論が抜けていたり曖昧になっていたりと、さまざまな解釈になり、真実からは逸れています。

まず伝統のヴェーダーンタを教えている先生方は、必ずそれを教えています。そのような混乱をきれいに払拭した上で、寸分の狂いもなくクリスタルクリアな理解になっている人が本当のヴェーダーンタの先生、サットグルです。そうなってから教えることはどの聖典でも述べられています。

モークシャを得た人の家族や周りの人はみんなモークシャです。そうでない人はいつまでも識別なく主観的な間違った自分の考えを見続け、そういう人から学ぶと混乱の原因になります。

それを見分けるのは、学ぶ人の知性にかかっています。

しかし、どうしても個人的な間違った主観的な考えを眺めてものをいう人の方が圧倒的多数ですし、識別ができないのでその考えを客観的だと思って根拠なく発言する人も多くいます。その考えの向こう側にある客観的な意見、イーシュヴァラが見えていないことがほとんどです。

部分的な理解だと、どうしてもイーシュヴァラという秩序が明晰にクリアに見えないために、間違った解釈が広がり、道理に従ったこととそうでないことの識別ができず混乱が残ります。

モダンヴェーダーンタというものあり、この移り変わりの世界を幻や幻影と訳していることから、この世界に対して無関心になり、やる気も起こらず、社会に積極的に関わる事から逃げてしまう人もいます。

無関心はサットヴァである考えがタマス、鈍い質に覆われているため、活動することすら億劫になってしまいます。その場合は、正しい方向に導いてくれる指導者によって、ラジャス、活発的な質を優位にして精神的な成熟を促し、ダルマの選択によって結果を求めることの中にイーシュヴァラから与えられること、運や奇跡や成果として現れた姿に喜べるサットヴァ、清浄な質を現していきます。

全てが明確に理解できれば、そのエビデンスやガイドラインなども含む、宇宙の完璧な秩序の中にいる個人の私に、知識や技術としてイーシュヴァラを現すことができるその喜びと、全ての生きとし生けるものもイーシュヴァラが現れている姿であり、物理的なものの全てもその秩序が現れた姿であることを理解すれば、この世界はなんと見事なまでの美しさなのか、毎日感動と感謝と敬意を持って過ごすことができます。

この瞬間瞬間を彩ってくれている秩序、イーシュヴァラへのナマハの思いは溢れるばかりになります。

ヴェーダーンタを学ぶ前、イーシュヴァラという秩序を知らない時に、どのように自分と世界を見ていたかというのは、その人それぞれの記憶が重なっています。

この世は競争社会だから成績や成功を収めるべく社会で勝者になるよう育っていれば、そういう社会の中で競争し嫉妬して羨ましがって、自分を見下げ相手を蹴落とすなど、その記憶をベースに人生が繰り広がり、いつしか生きづらさを抱えるでしょう。また、何でも与えらたやりたいことにチャレンジでき、その成果も自然とついてくるような運の良い生き方をしていれば、やりたくないことも与えられれば淡々とこなし、辛く苦しいことも自分の成長のためにあると捉え乗り越えていけるので、この世はなんてありがたい世界なのだと常に周りにも神にも感謝を持ち、幸せに生きることもできます。

与えられた役割が自分に合っていて楽しくてやりがいがあって、役に立っている自分に喜びと満足があり、適切な自尊心と自己愛を持った生き方をしていれば、その中にはやりたくないことも含まれているのは当然のことで、好き嫌いで選んで仕事をすることもなく、やらなければならないことをこなす日々の中で幸せに充実して過ごせています。そういう人がヴェーダーンタを学べば、すぐに当然の理解となることは聖典でも言われています。

もしくは、ヴェーダ・ヴェーダーンタを学びながら、やるべきことをやることがやりたいことになり、周りや全体とも調和して嫌いな人ともうまく対話でき、嫌なこともこなしていけるように主観的な間違いを識別する能力を養い、上乗せした好き嫌いもなく成熟していけるよう学びながら社会生活を送っていくのが前半のヴェーダが教えている行いと行いの結果についての部分です。

ですが、そもそもヴェーダの教えているダルマというのは、人間が本能的に持っている優しさや思いやり、慈しみや愛という基本的なことです。それを基に人はこうされたくない、私もそうされたくない、こうしてもらいたいという常識的な感覚が生き物同士の間にある行動の判断基準です。

しかし、その常識が間違ってしまう人がたくさんいるために、人を傷つけることも生き物を殺すことも、自然を破壊することもできてしまうのは、人間が間違った自己認識から自分の欲を満たすことが基準になって行動しているからです。

間違った解釈であるがままの事実に目を向けず、ずっとその間違いの考えを見続けていては、真実を理解することはできません。それを教えようとしても、自分の考えの方が強くなっている人には、その教えも主観が邪魔をして届きません。

当たり前にきちんと物事を丁寧に理解する段階を得てからヴェーダーンタを学ぶと、全ては当たり前のことしか言っていないことがわかりますが、これから学ぶ方々にとっては、モークシャ=「自分自身を理解する」ための内側の道具を綺麗に整えるためには、社会生活の中で様々な物事の道理を理解するプロセスが大切になります。

例えば、ITのプログラミングで、そのプログラムの配列に一つでもミスや抜けがあった場合には、予定通りの画面表示やシステムが作動しないことになります。メールアドレスが1文字でも違えば相手に正しく送信できないことは当たり前に理解できると思いますが、それもエビデンスがあるからです。もし1文字脱落していてもうまく表示される偶然というものがあったとしても、それがまた新たな発見となり、エビデンスを更新し確立していく情報になります。

また、いくら素敵な建築デザインをしたとしても、土台になる基礎工事が建築や地質や気象などの法則に調和して秩序に基づいて正しくなされなかったら、その建物は脆く崩れ去ってしまいます。

しかし反対に、きちんと正しい方法で土台から作って建てたとしても、地震や土砂崩れ、ハリケーンや河川の氾濫などの天災で一瞬にして崩れ去ってしまう場合もあります。それを不運などと呼んでいますが、そこも見えない秩序によって起こることであり、その背景には完璧な法則があります。

生理学で人間の体の機能を見てみても、そこには血液の流れが突然逆行し始めたりしないように、顔のパーツの数や配置が人それぞれ違わないように、道理に従った秩序があります。

落体の法則も、全ての物が落ちる速度は同じと言えど、そこに自然現象である風速や気象や湿度・湿度が絡み合って、絶対的にはならないこともありますが、それもさまざまな法則が絡み合って現れた秩序です。

また、飛行機が法則で見るように落ちないのはなぜかというと、風力や火力というエネルギーを利用して、空気抵抗を高めるような機体の構造や、気流をうまく発生させ落下に逆らうような働きに変えるような構造を、物理学的な法則に従って様々な秩序を駆使して得られたエビデンスに基づいて作られているため、このくらいの時間飛行可能で、着陸にもまた物理学的なエビデンスが数多く採用されて、無事安全に着陸するように、その分野の方々が一生懸命エビデンスを分析した上で成り立っています。

そういうことを様々な分野で学ぶことで、どの分野においても結果があるところには原因があり、その根拠や証拠を正しく分析する方法や道理を学ぶことで、見えない結果も含めて完璧な秩序があることを理解していくのです。

そのエビデンスが絶対ではない場合は、さらに情報収集をして反論し、さらなる正しい情報に修正していくためにも批判的思考というものがあります。そうして反論を重ねて、より建設的にエビデンスを確立していく努力も大切なことです。

批判的思考とは、闇雲に根拠なく批判することではありません。自分の意見に対する反対意見であり、他者の意見に反論がある場合は、そこまで分析してきた努力を労う言葉は必ず相手に伝え、より建設的に向上するために意見を述べます。しかし、世の中の多くの人が間違った捉え方で、好き勝手に自分の思い込みを重ねて批判する言葉を発信してしまい、人々を混乱に陥れてしまいます。

物事を比較する場合でも正しい算出や分析方法があり、質的データと量的データを数学的、統計学的に分析する方法を用いて、根拠立てて事実として有意差があるかないかを言うことができます。また多くの文献を参考にし、自分の言わんとすることが秩序として正しいかどうかを分析し、一つの物事を多角的に分析して整合性を高めるためにも必要なことであり、ウパニシャッドを勉強し理解するためにも必要な能力です。

バガヴァッドギーターで主人公アルジュナが、兵站学に詳しく弓術に長けているというとは、国全体を把握し、軍事戦略を代々受け継がれてきて何千もの兵士たちを指揮し、こういう時はこういう作戦で、この場合はこの方法で攻めと守りの策を十分に把握しているということも、これまでのエビデンスがあるからですし、弓術も、この角度からこの強さで弓を放ったらどこに当たるかも、たくさんの訓練と判断力で命中率も上がるのもエビデンスです。そこに風を呼んだり地形を把握してどこから矢を放つかも全体が見えているという意味が含まれています。

人間が明かせているエリアのことを科学と言いますが、科学で明かせているエリアは極々僅かです。人間の考えと五感が及ばないエリア、明かしきれない宇宙の法則があることもまた、それによって学ぶのです。

この世界には偶然というものはなく、全てが法則です。

見えない世界にもダルマの法則、カルマの法則が必ずあります。ですので、この世界には秩序でないところはありません。つまり、イーシュヴァラでないところはありません。

医療でもエビデンスに従って、こういう病気の時にはこの治療が効果的で、それを施行するには年齢や体の大きさ、基礎疾患やアレルギー、家族歴、社会的背景、宗教、本人の考えや心理的な作用、生体反応などなど、多くの情報をもとに治療がなされ、全力で人を助ける医療従事者もまた、その結果は人それぞれであることを熟知しつつ、最善を尽くし結果は神に祈ります。

一定の法則があることが理解できた上で、個人差があることもまた見えない法則として私たちは理解していくのです。

そうやって物事の道理を知れば知るほど客観的になり、客観的になればなるほどイーシュヴァラの理解が当たり前にできていくのです。

個人の主観的な意見というのはたくさんの間違いや思い込みが含まれていますので、そう言った意見からも客観的になり識別ができていくのがこのような分析方法を使って情報収集し、根拠を調べた上で物事を見ていく習慣をつけていくことで、選択肢は必然的にイーシュヴァラを選択し、物事の道理に沿って秩序に従い、法則に調和した行動になっていき、より客観的になり法則に基づいた意見、イーシュヴァラと調和した言葉と行動になります。

物理学や医学や心理学や生態学や気象学や数学などの部分的な知識もイーシュヴァラの現れた側面です。探求して知れば知るほど、パズルの全体が埋まって一つの絵になってすっきりと物事が理解できる広い視野と洞察力に変わっていきます。

間違った上乗せした主観的な考えを見て、自分の思い込みであれこれ言ってしまうことで、他の誰かにとってそれが正しいと思い込ませてしまい、またそれが広がっていき、あやふやな認識があたかも正しい情報のように伝播してしまうのが今の情報社会です。正しい認識と情報発信という習慣をつけていくためにも、日常生活の中で正しい情報収集と分析能力を身につけていけるよう努力することは、ヴェーダーンタの言わんとすることを正しく理解し、間違いを払拭していける綺麗な考えを養っていくためにも大切なことです。

論理的手法で結果を分析するためには、客観的情報を多く集めて整合性を高め、原因を探っていくプロセスは思考の整理になり、主観や先入観を払拭していくことにもつながり、ますます原因と結果の秩序の背景にある多くの物事が複雑に絡み合って成り立っている事実を知ることができ、その法則、つまりイーシュヴァラの素晴らしさや完璧さを知ることになるのです。そういう理解と要約を積み重ねていくことで、抽象思考を具体化することで、言語化し伝える能力も高くなり、想像力も豊かになり洞察力も付いていき、判断力も早くなり視界も開けて、自分のやっていることが社会の役に立つために更なる努力と進歩を続け、間違った主観的な余計な思考から自由になっていき、物事の捉え方がイーシュヴァラそのものになっていくのです。そうなれば、見えるものも見えないものも、全てを含んだ法則の中にいる個人の私は、最後の結論である自分こそがイーシュヴァラであり、ありとあらゆる物や生きとし生けるものは意識である私に頼って、隠す力と現す力を使って移り変わりの法則としてこの世界を展開しているのだと言う理解は起こります。

人を助ける行いをし続けて、論理的思考を養ってきて、それがやりたいことで充実して生きてきた人は、与えられた能力や体を含め自分や周りや環境にはもちろんのこと、見えない力にいつでも感謝の祈りをしています。

それがイーシュヴァラであり、今まで感謝していたそれこそが自分自身であることは、当然の理解になります。

法則に反した間違ったことも根拠なく簡単に言えてしまうのが、独自の解釈を加えた哲学です。

聖典に書いていないことでも、常識や思慮分別を持つために必要なこと、道理の通ったことや秩序に調和したことなど、正しい理解に繋げることを話すことは、人間の精神的な成長を促し、明晰な思考を養い、客観的で正確な物事の捉え方に導き、落ち着いて冷静な人間性を養います。それが、ヴェーダーンタを理解するための資質であり、それを養うことがヨーガの生き方です。

聖典の中でも、根拠のあること、真実を話すことも教えられています。聖典の言葉が根拠となり、聖典にないことでもそこに導くための言葉は必要ですが、混乱させるような根拠のないことを言う必要はありません。

このようなことはそれぞれの分野で正しい手法でエビデンスに沿った物事の捉え方をしてきた人にとっては、ごく当たり前のことです。そういう思考に成熟していくためにも、社会生活の中でエビデンスに基づいた知識や技術を持って、仕事をし家庭を築き社会貢献していくことはとても大切なことです。

また、行い手ではないという表現が聖典の中にありますが、それを何もしない人と捉えてしまう人も多く、洞窟にこもって瞑想に耽ったり、両手を上げたまま何もしない人も現れたりしますが、人間は体を与えられている以上、水を飲むことも排泄することも行いですから、何もしないことは不可能です。この肉体を使って社会貢献していくことによって、明晰な思考を得ることができるよう成長していくことが人間に与えられた知性ですし、それを社会生活の中で、ある程度の明晰さを持って活躍してから、最後の結論を完全させるために社会を引退して自分自身の知識を完成させるサンニャーシーの生き方を選ぶことができるのです。

そして、与えられたこの体も考えも、イーシュヴァラであり全体を支えるために能力を与えられ、その限りのある物質世界だけが私だと思っていた勘違いから自由になり、その綺麗な知性には自分こそが安心で幸せな限りのない存在意識であるということを理解せざるを得ないのです。

ですから、好き嫌いで選択してドロップアウトすることでもなく、社会に無関心になることでもなく、それはむしろ人間の成長を妨げて、ますます知性を曇らせてしまい、物事を正しく理解することから遠ざかってしまいます。

好き嫌いで選択しないというのは、ロープに蛇を重ねて怯え恐れて逃げたり避けたり攻撃したりするのは妄想です。あるがままに見たら、ロープは襲ったりしませんので、逃げたり避けたり襲う必要もありません。

ビーチに転がっている貝殻にコインを重ねて引き寄せられていきますが、その理想通りでないことに怒りや悲しみ、落胆します。しかし、最初から貝殻は貝殻であって物を買うことはできません。

そういった妄想を重ねて事実に間違いを上乗せして見ている場合に、好きで引き寄せられたり嫌いで避けたり攻撃したりすることを言っています。

だから、世のため人のために自分の能力を全力で注ぎ、そのためにどうしたら良いのかを常に考えながら視野を広げて客観的に物事を捉えることを省いて引退したところで、いくらヴェーダーンタを長く勉強しても理解にはならないのです。

想像力が乏しい人から学ぶと、柔軟な思考で想像力を広げて理解しようとしても、同義語に置き換えたり、表現を変えて言い換えたりすると間違っていると認識するので、理解を妨げられてしまいます。

理解せずに教えることも混乱させてしまうばかりでアダルマですが、そういう人は自分で気付けませんし、教わった人も同じレベルの理解までしか成長しません。それを理解していると思うのもまた、同じレベルまでの理解でしかありません。

社会生活の中で人との関わり合いで、個人の主観的な間違いを上乗せしていることを識別し、自分の好き嫌いによって自分を苦しめていた間違った観念からも自由になるためにも、社会生活の中で貢献者として成長するための行いをやめてしまっては、いつまでも自分のやりたくない、無関心、避けたい、心地良い方が良い、というわがままで自己中心的な選択からは自由になることはありませんし、記憶を通した主観的な考えを見続けて好きや嫌いに左右され、客観的な見方を得ることはできません。

つまり、ヴェーダーンタを理解することはできない、自分自身の知識を完成させるモークシャは叶いません。

苦しみやストレス、不運と思われるようなことはいつでも起こります。

それを識別して、自分自身の本質にとどまり、穏やかに幸せに生きることが究極のゴールです。

ですから、常に自分の間違いを外側に見るのではなく、自分に見ることが理解を助けるヨーガの生き方です。

物が自ら勝手に出来上がったりしないように、物事の背景には必ず原因があり、そのプロセスがあります。それを知ることは、物事の道理を理解し秩序が見えることです。そうすると、何事も法則の中にあることも理解できます。

考えを綺麗に整理していくカルマヨーガの生き方、行いと行いの結果を得るためのカルマヨーガである前半のヴェーダの教えがあるからこそ、最後の結論である自分自身の知識が理解できる知性が養われるのです。そして、ヴェーダーンタという人間のゴールの知識があるからこそ、ヴェーダという行いと行いの結果についての理解があるのです。ですから、この世界の移り変わりの中で、結果を得ることもエビデンスを分析することも、それを使って物事を理解していくこともダルマの選択であり、全てがカルマヨーガになり、考えを綺麗にして最後の結論を理解するのです。

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वङ्मे मनसि

ॐ वङ्मे मनसि प्रतिष्ठिता। मनो मे वाचि प्रतिष्ठितम्।

आविरावीर्म एधि । वेदस्य म आणीस्थः ।

श्रुतं मे मा प्रहासीः । अनेनाधीतेन।

अहोरात्रान् सन्दधामि । ऋतं वदिष्यामि ।सत्यं वदिष्यामि ।

तन्मामवतु । तद्वक्तारमवतु। अवतु माम् ।

अवतु वक्तारमवतु वक्तारम् ।

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः

vāṅ me manasi

om vāṅ me manasi pratiṣṭhitā । mano me vāci pratiṣṭhitam |

āvirāvīrma edhi । vedasya ma āṇīsthaḥ ।

śrtaṃ me mā prahāsīḥ | anenādhītena |

ahorātrān sandadhāmi | ṛtaṃ vadiṣyāmi |

satyaṃ vadiṣyāmi | tanmāmavatu | tadvaktāramavatu |

avatu mām | avatu vaktāramavatu vaktāram |

om śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ

どうか、私の言葉が私の考えに止まりますように。

私の言葉が私の考えと調和でありますように。

本当のことを話すこと。自分が知らないことを話すべきではありません。

その中ですら、私が話すべきでないことを話していないか疑いを持ちます。

刺々しい言葉を使わないこと。

コミュニケーションしたいことは、優しく穏やかな口調を心がけねばなりません。

本当のことを話すべきで嬉しいことを話すべき。

本当のことでも嬉しくないことを話しませんよう、そして嬉しいことでも本当ではないことを話しませんよう、これが普遍のダルマです。

考えに深い洞察を持って、注意深く話すべきです。

私が話す時、私の考えもまた、私の言葉とだけ共にあります。

ああ、自分自身で明らかなブラフマンよ、知識の姿で私に明らかになって下さい。

実際、あなたが私の無知を覆うヴェールを取り除きますよう、あなた自身が明らかになりますよう

どうか私の考えと言葉がヴェーダで明かされる真実の意味をもたらすことができますように。

私が先生から聞いたことが、私を置き去りにしませんように。

私が先生から聞いたことを忘れませんように。

私が先生から学んだことがあり、それは私が忘れないことです。

私はこの価値ある教えを昼も夜も熟考します。

その教えの意味を、たとえ日常で周りの人と関わりながらですら、いつも考えに保ちます。

この教えで与えられる真実を私は話すべきです。

正しく考えられた真実を私は話すべきです。

正しい理解によって、ブラフマンが生徒を守りますように。

教えられたことの本質と同じ知識を与えることで

教えの正しいコミュニケーションによって、ブラフマンが先生を守りますように。

それが求められ、祈られます。

ブラフマンが自分自身の無知を取り除き、私を守りますように。

教えを完成し満たすことで、ブラフマンが先生を守りますように。

知識が広がっていくことでまた、尊敬を持って完結を宣言するために。

訳 swami cetanananda sarasvati

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