ヴェーダーンタ勉強会九十九里では、バガヴァッドギーター第2章でクリシュナの教えが始まり、皆さんから人が亡くなった後の魂についてのご意見がいくつも出てきたので、ヴェーダーンタの教えている本質から逸れてしまうため、それをしっかりと識別する必要があるので覚書しておきます。
ストゥーラシャリーラ・肉体を手放しても、感覚器官と考えと生理機能の複合体・スークシュマシャリーラと、過去の行いの結果・カルマが個人名義で蓄えられて次の生まれの原因となるカーラナシャリーラがあります。
魂というのは、individual soul・jiva・個人になります。
それを明確に理解しないで混同してしまうことは、根本的な問題に気づいていないので、また肉体を手放しても天国のような世界・スヴァルガや、地獄のような世界・ナラカに行き、徳・プンニャと不徳・パーパの消費をした後、またこの世界・ブーローカに虫や植物や動物e.ṭc.に生まれて、またプンニャ、パーパの消費をして、また肉体を手放して他の世界に行って、またこのブーローカに生まれてきて・・・・・というサムサーラ・輪廻の繰り返しの中で生まれたり死んだりが延々と続きます。
人間に生まれるということは、ダルマを選択できる自由意志があります。
優しさや思いやりを選択し使えるのが、人間にだけ与えられた知性です。
ダルマを選択し続けて生きることによって、物事をあるがままに正しく見て判断する能力が養われていきます。
客観的になればなるほど、自分の小さな考え、歪んだ思考の癖からも自由になります。
そうして生きていくと、物事の背景や人の気持ちなどに対する想像力や共感力も培われ、その背景や人に対しても自分の力を貢献していくことができていきます。
そして、全てはたった一つの法則であるイーシュヴァラに生かされていること、ありとあらゆることは関連し合って物事が一つに回っていることに気付いていきます。
そうすると、イーシュヴァラにいつでも感謝と敬意を持ちながら、安心して喜びに生きていくことができます。
そうして生きてきた人には、ヴェーダーンタが教えてくれる、自分自身がイーシュヴァラであり、この世界の全てがイーシュヴァラであることを知り、聖典の最後の結論が理解でき、サムサーラからも解放されます。
意識である自分自身は、サムサーラの中にはありませんし、その中であの世とこの世をグルグル回って移り変わり続けている魂が自分自身ではありません。
間違った理解のまま進むと混乱を来たし、その混乱をさらに人に伝えることは、人々を混乱させてしまいアダルマな行いになり、その結果はいつしか自分に実ります。
その違いを理解できる能力を身に付けるためにも、いつもいつも、イーシュヴァラに感謝し祈り、アダルマな行いは反省して祈り、生きとし生けるものの幸せを祈り行いをし結果はイーシュヴァラに委ね、イーシュヴァラを常に思えるよう瞑想をし、聖典を理解する努力を続け、個人の間違った主観的な考えを識別し続けていくことが必要です。
そして、ヴェーダーンタを理解できるまで先生との対話を続けて、自分の理解の間違いを訂正していく努力も大切です。
本を読んで独学で学ぶものではなく、必ず先生と生徒の対話の中で、自分の間違いを認めて修正していく能力が必要です。
その能力を養うことも、カルマヨーガの中で身に付け、自己成長していく努力も必要です。
スワミダヤーナンダジは、イーシャバーシャ ウパニシャッドの冒頭で理解できない人の例え話をされます。
ラーマーヤナのお話をする語り部が、7日間朝と午後にお話をするのを毎日聞き続けていた人が、最終日にみんなが去った後、「あなたに個人的に質問があります」というので、一生懸命毎日聞き続けてくれていたので、語り部はどれだけ理解して質問してくれるのかと嬉しく思い期待して待っていたら、「ラーマ、ラーヴァナ、ラクシャサ、3つの名前が出てきたけれど、私には誰がどれなのかわかりません。誰がラーマですか?ラクシャサは誰ですか?ラーマがラクシャサ?ラーヴァナがラクシャサ?誰がラクシャサ?」と、混乱した質問をしてきて、語り部は怒りました。誰でも分かるダルマ・正義である王子ラーマと、アダルマの象徴であるラクシャサの違いがわからないというものがあります。
また、ケーノーパニシャッドでは、全て教え終わった後に生徒の一人が「ウパニシャッドを教えて下さい!」と言ったという話もあります。
バガヴァッドギーター第18章の最後にも「ギーターやクリシュナに過ちを見つけた人にはこの教えを与えてはいけません。例えば、クリシュナを傲慢だと見なす人もいるかもしれません。・・・・・・(命令や指示が多く)人が一人称を使いすぎると、人は彼が傲慢だと考えることができます。しかし、ここでは、クリシュナはイーシュヴァラとして話します。そして彼がイーシュヴァラとして見られるならば、教えは効果的になります。シャーストラを知っていて教えている人は誰でもシャーストラヴィッドですが、クリシュナはシャーストラヴィッドであり、シャーストラの作者であり、啓示者でもあります。 ギーターシャーストラをイーシュヴァラからまっすぐに来ていると見なすと、その人を祝福します。一方、・・・・・シャンカラは、クリシュナに過ちを見つけた人は、クリシュナがイーシュヴァラであることを知らないと言います。嫉妬を持っているそのような人には教えられるべきではありません。なぜなら、そのような態度では、教えは実りのないものになるからです。」と言われています。
私がヴェーダーンタと出会い、自分自身を知りたくて知りたくて、ずっとヴェーダーンタを学ぶとサンカルパ・決意をして祈り、毎日毎日1日中ヴェーダーンタをスワミチェータナーナンダジから学び続け、直接のクラスがない時にはビデオで復習や補習を続け、自然と自分の理解を要約していつも言葉にしていて、勉強会を始める時も許可を頂き、毎回のクラスでの質疑応答や内容をまとめて確認して頂き、クラスのビデオを見て頂いたり、取材で記事を書いた時も自分の間違いがないかを確認して頂き、ずっとご指導をお願いしてきました。
ヴェーダーンタ以前に社会生活の中でもこれまでずっと、学生時代も臨床研究の中でも論文や学会発表する時には、まずまとめて教授のご指導を何度も何度も頂き、たくさんの先生方の目を通して頂き様々なアドバイスを受けながら自分の間違いを常に修正し続け、自分の考えが一つの科学的根拠となるに当たり、個人的な意見ではなく客観的なものとして人の命を左右する可能性のあるものになるという重大な責任を持ち、自分の未熟さを認め謙虚さを持って真摯に受け止めてこられたこと、そして尊敬する先生方と出会えてこれたこと、共に働く場が与えられてきたことに本当に心から感謝と尊敬をしていて、それがあって今につながっていること、ウパニシャッドを理解できる姿勢や知性を養えてきたことに、イーシュヴァラにずっとずっと感謝をし祈りながら生きてこれたことに、ますます感謝が溢れるばかりです。
人のお世話をするのが好きで、人を支えたり助けたりする仕事に就きたいと10代の頃に思えたこと、ずっとその努力をして仕事をしてこれたことも、そそれも全て大切な人たちが様々な形で導いてくれてきた人生の全てがイーシュヴァラに運ばれてきたことに、いつでも感謝して祈り生きてきました。
このように指導されながら成長することが当たり前で生きてきた上で、教える立場になるということは相手に理解してもらう努力をすることであり、そのためには論理的に要約する能力が絶対的に必要になるので、これまでも当たり前に根拠を述べて論述できるように学生や新人教育もしてきたので、当たり前のことを当たり前に言っていて、少しずつ理解できている人もいてくれることはとても嬉しいことです。しかし、中にはそれができずに、間違った自分観で強いコンプレックスが誇大感になり、傲慢なプライドになって人のアドバイスを素直に聞けない人もいます。
バガヴァッドギーターの絵で、4頭の馬は4つの感覚器官、馬車の車体は触覚、アルジュナはアートマー、クリシュナは知性として表されています。
クリシュナ・イーシュヴァラの言葉に歪んだものの捉え方を重ねて怒り傷付け、馬車からクリシュナを突き落として感覚器官の思うままに、好き嫌いで突き進む馬車は、知性を失いアダルマな生き方でサムサーラの大きな苦しみの海に落ちてしまいます。
聞く能力、シュラッダー・信頼と、歪んだものの捉え方を識別して正しい姿勢と態度で学ばなければ、正しい理解には繋がりません。
しかし、今はYouTubeやビデオだけ本だけを見る人も多いので、先生と十分なコミュニケーションを取りながら要約して言葉にしていき理解を深めていける機会を自分で積極的に作っていこうとせずに、理解しているわかっているという態度で間違ったことを発信してしまう人もいます。
本来はグルクラムで先生と生徒が一緒に生活しながら、生徒の資質を見極めた上で教えを始めるものです。
先生は学校に限らず、夫や親であったり友人であったとしても、学ぶ姿勢と態度は絶対的に必要です。
ヴェーダーンタの勉強を始めるには、聖典の言葉と自分の考えを同じ理解にしていけるように必ず先生を一人決めて、密にコミュニケーションを取りながら、正しく理解できるように努力をすることが大切です。
それが脈々と受け継がれてきた伝統の方法であり、グルパラムパラムです。
それなしには正しい理解とは言えません。
学びたい方が正しい理解をしている先生と共に間違いのない理解に導かれますようお祈り申し上げます。