論理立てて考えることとそこに想像力を働かせることの重要さがわかりました
ヴェーダーンタ勉強会九十九里
質疑応答
Q.
論理立てて考えることとそこに想像力を働かせることの重要さがわかりました。
自分の経験だけでは間違いの理解に繋がり、本当の理解のためには文章の読み方や要約すること、言葉の本当の意味を学ぶことですね。
私も言葉一つ一つを丁寧に理解し、自分の今までの知識だけで解釈しないように気をつけたいと思いました。
今は便利な時代で私はすぐにスマホで調べてしまい、辞書を引くという習慣がありません。
スマホの情報では間違っていることも多いのでしょうか?
ネットの検索にはウィキペディアやコトバンク、Weblio…などなど沢山のサイトがあり、どれを選ぶかも悩みます。
ミッテャーとサッテャのお話は以前からお聞きしているポットと土に置き換えると少し分かった気にもなりますが、やはり私もみなさんのお話しを聞いていて混乱しました。けれど、いつかこの言っている意味が腑に落ちる時が来ると信じて先生のお話を聞き続けようと思いました。
A.
すぐにスマホで調べることは良いことですが、どのサイトを信頼するかが重要になります。
wikipediaは、専門的な知識ではなく、一般の方が自分の知っていることを投稿しているので、本当のこともあれば嘘もあり信頼性はありません。
言葉の意味だけを調べるなら、weblioでも大丈夫です。
情報を得る時には、あまり一般の人たちがあれこれ憶測で書いているようなブログなどは無視した方が良いです。
それを専門的に実践していて、その背景に研究機関や論文などの参考文献をいくつか挙げていて、裏付けがある内容を信頼するようにした方が良いです。
ただし、科学的根拠というのは、全部を明確に明かしているものではなく、実際目に見えない現れていないものが大半ですので、その中からこれはこうなってこうだからこうなのだよ、こう言うことをするとこうなるよという順序・秩序がある程度明らかにされていて、物事を論じるときの指標にするということです。
必ず反対の意見を論じているものもありますので、自分の意見に近いものを参考にして、絶対ではなくそう言うものを軸にしておくことによって、どちらの意見にも転がれると言う柔軟性を持つことができます。
それが進化と共に変化していくのなら、新たな情報を得ていけば良いことです。
そう言う軸を持って物事を見ていくことによって、自分や他人の主観に振り回されることもなくなります。
肉体でも何でもそうですが、体幹が安定しているからしなやかに動けたり、どちらに転んでも起き上がれますよね。
例えばオリンピックフィギアスケートの選手が、4回転ジャンプをするとき、論理的にどこからどの角度でどの筋肉を使ってどのように飛ぶかを何度も検証して、そこに転んだらどうしようとか、できなかったらどうしようと言う余計なマインドがあればその通りうまういかないことも理解しているでしょうし、そのマインドが浮かんでも横に置いておいて、今やるべきことに集中しているから確実に成功する道に進んでいく。論理的な基礎がありそれに従って軸があるから、やるべきことをやったという自信も持てる。それでもうまくいく時といかない時があるのは運であることも理解しています。
科学的根拠というのは、社会一般で共通認識を持つための道理や秩序のことですが、間違っているものもたくさんありますし、それが絶対的だと思わずに、参考にしながら自分がこう思ったことは正しいのかな、間違っているのかな、そして自分の意見が本当はこうなんじゃないかなと思う時には、さらに追求して調べていくことを繰り返して、どこかで妥協して、結局はデーヴァターに行き着くことも理解していって下さいね。
実際のところ、研究している人や調査している人、それを使って仕事をしている人の多くが、追求し切れない部分、曖昧な部分に行き着いて結局は神の成せる業であると言う結論に導かれますからね。
だからこそ、きちんと追求することが大切なのです。
その順番がめちゃくちゃで、自分の思い込みで物事を見たり発信している人が山ほどいて、むしろそういう情報の方が多いですから、基本的にはそういう情報は見ない聞かない、正しい情報を探すということを練習していって下さい。
私もある程度のことは、どういう機関の情報が信頼できるというのはお伝えすることはできますので、知りたいけど情報が出てこない、この情報は嘘か本当かなど、気になることがあればご相談下さいね。
ヴェーダーンタを教えていても理解していない人は科学を否定してしまい、人々を混乱に陥れてしまう人もいますが、聖典は科学は法則である、つまりイーシュヴァラであると言っていますし、この世界に現れたもの全ては始まりがあって終わりがある質であって、そこに「ない」ものを見ていたり、そこにあるものに違うものを重ね「間違い」を見ていることを識別して、あるがままのことを見るように成熟していくことを教えています。
ポットは土であって土はポットではなく、ポットが壊れても土は残るけれど、ポットとしてそこにある時には水を汲むこともできるし、花を活けることもでき、食べ物を保存することもできることを教えています。土がポットだと思っていたら壊れることへの不安と恐れに苛まれるけど、土が土だと理解していればポットを壊れるまで大切にありがたく使うことができるのです。
また、その始まりがあって終わりがあるものに依存していても、その基盤になっている自分自身に依存して幸せを追求していかない限り、喜びや満足をいくら得ても、それは失われゆくものですから、家族や知人、仕事や物や地位や名誉や財産、旅行や食べ物や娯楽で一時的な喜びや満足を得たとしても、それらはいつか失い、また探し始めることの繰り返しですから、その識別が必要ですよと言うことであって、この世界で物事をあるがままに見ていくためには、あるがままに現れたものを捉えられなければ、今やっていることも与えられていることも全てが疎かになってしまうだけです。
ですから、科学で現されたものは、嘘や間違いでもなくあるがままのことを明かしているものがほとんどです。
その中でも、嘘や間違いが含まれているので、ダルマの選択を慎重に続けていくことによって、その嘘か本当かを直感的に理解し、あるがままに物事を見る習慣がついていき、聖典の言葉を正しく理解できるようになるのですね。
ミッテャー:始まりがあって終わりがあるもの。時間空間軸の中で移り変わるもの。あなたが捉えているもの全て。対象物(肉体も感覚器官や考えの複合体を含む)
サッテャン:時間空間軸を超えた移り変わりのない存在。ありとあらゆるものにあまねく満ち満ちている意識である主体。全ての対象物を捉えているあなた自身。
Q.
化学的なものも調べて調べて追求しても、結局は妥協するところに辿り着く…明かされていないところはデーヴァターを持ってしか説明できないところに行き着くということですね。
A.
化学=実験などで、例えば酸素系と塩素系洗剤を混ぜると有害ガスが出て危険ですよ、とか、リトマス試験紙が酸性だと赤になりアルカリ性だと青になります、とか、血液の成分もナトリウム、カリウム、カルシウム、リンなどで構成されている内容を分析することなど、実験で得られる結果などです。
科学は、様々な分野があり、自然科学、生態科学、人文科学、心理科学、医科学、社会科学などなど、大きく捉えた法則を明かした学問的知識で客観的なものです。
違いを明確にしておきましょう。
Q.
ありがとうございます‼︎
化学と科学の意味の違いも理解していませんでした。
ここを間違ってしまっては、あとの理解には進めませんね。
普段の生活では、触れなかったり興味を持てずにいることが沢山あるので、聖典のお話に留まらず、幅広く知ることができるのはとても嬉しいです!
A.
こういうことを教わって怒り出す人もいますが、素直に聞いて頂けて嬉しいです。
小さなことでも一つ一つ丁寧に知っていくことで、最後の結論を理解できる知性を養えますからね。
日常的な物事の順序・秩序を大切に考えられないと、あなたが使っている一番近くにある自由意思よりも、間違った観念や感情気分の方が先になってしまいますからね!
肉体を通して感覚器官があり、そこから入った情報をもとに考えに運ばれ推論が働き結論を出す、その一連の働きを扱っている人に気づいていくためには、日常的にもこのように思考を使っていくことは大切なプロセスです。