ヴェーダーンタ勉強会九十九里質疑応答
Q.ドゥルヨーダナのお話ですが、今はアルジュナを陥れて国を奪って追放して返す約束も守らずアダルマの行いでパーパをどんどん貯めていながらも、今はそれが喜びになっている。
弱いから嫉妬して、意地悪を続けて喜んで・・・パーパが今すぐ実らず乗り越えられないことは返ってこない。
乗り越えられない時には返らないって、イーシュヴァラの寛大さ?
そして成長した人は乗り越えられるから、今世では試練を受ける?
乗り越えられる人は学ぶのですね、感謝ですね。
ダルマとアダルマが対になる事で成長になる、気づきになる。
良いも、悪いもなくても、ただその事実がある。
じゃぁ、どうする?
私はダルマに生きたい、ダルマに生きる、ダルマの選択をし続ける。それが良いから、正義だから!って振りかざすのではなく、あいつを倒したいから、だってダルマが正解だもん!
ではなく、ただただ思うままにダルマを自然に選んでいけばいいのですね。
A.何もイーシュヴァラに抗うことはなく、今のまま優しさや人の喜びのため、自然環境にも優しく全体に調和するダルマを選択をしていくことです。
ダルマを選べない上乗せした観念を識別して、イーシュヴァラに解消していくだけです。
誰もが何回もの生まれ変わりをしてきています。
人間に生まれてきたこともプンニャが実っていますし、心が未熟で嫉妬から相手を蹴落として奪っていても、欲しい物を手に入れられる。
どうして良いことばかりなの?とイーシュヴァラは不公平に思えますよね。
でも、心の奥底では自分を見下げるとても苦しい深い悲しみがあるのです。
まだ未熟な時には気付けないのです。
そうせざるを得ない過去の体験が重なり、自分を見下してしまうコンプレックスから嫉妬してアダルマを続け、それでも喜びが実るのは、過去世でダルマに生きていたことがたくさんあるからです。
いつからか歪んでしまったのですね。
人間の始まりはダルマでしたね。
バガヴァーンがナーラーヤナ・全体宇宙にこの対象化できる世界・ジャガットを作りプラジャーパティ・生殖が置かれて子孫繁栄があり、まず一番最初にこのジャガットが維持されるためにダクシナームールティからダルマが教えられたのが始まりですから、誰も最初からアダルマな人はいないのですよ。
誰もがその子孫なわけですからね。
いろいろな体験から記憶が作られて上乗せをし始めるだけです。
その人にちょうど良いタイミングで、今しているアダルマがイーシュヴァラの采配でいつしか実ります。
付けてきた汚れ、上乗せを落としていくのがヨーガの生き方です。
気づけば祈れて、それが中和されていく。
そして、気づけばアダルマを反省してひどいことをしてきた相手に対して、これまでの悪事を心から謝ることができる。
それは自分自身を赦すことにもなります。
謝った瞬間に、心が硬いバリアで閉ざされていたのが、ホッと和らぎ涙が溢れることはありませんでしたか?
成長できた時に自分のアダルマに気づけて謝ることができるのです。
硬い鎧を着て、いつまでも相手が落ちぶれていくのを喜んだり、傷つけたことを反省出来なければ、その歪んだ考えに束縛され続けます。
気づいて反省して謝って、自分の小さな考えの癖に気づいて、あなたの今まで知らなかった無知のエリアに解放していけば良いのですよ。
気づかないとまたその考えに連れ去られていくのは一瞬です。そしてアダルマをまた繰り返してしまいます。
そして、気付いてそれを言葉にしていくことも大切な行いです。
気づきによって考えがきれいになれば、言葉も行いもダルマに変わっていきます。
Q.ドゥルヨーダナのお父さんの立場の話もためになりました。
アダルマをしている息子に対してどうしたらよいのか。
口にしていいのか、理解できるのか、伝わるのか、それを求められているのか・・・。
難しい所です。見ていて苦しくなる・・・どうしてそうなんだろう、自分の首を絞めているだけ、
自分を痛めつけているだけ。ざまぁみろって喜んでいても・・・、苦しいんだろうなと思います。
そう理解しながらも、その状態を止めらない側もアダルマなのでしょうね。
A.アダルマだとわかっていて周りが何も言えずにアダルマな方向に進んでいくままにしておくことは、結局本人が気づけないままいつまでもパーパを貯めて、いつしか苦しみの大きな海に落ちてもがく時がきます。
それを黙認してアダルマを手助けしているのもまた、アダルマです。
そういう人の味方についたり何も言えずにアダルマをさせておくことは、アダルマが蔓延してダルマが圧倒されてしまいます。
ダルマが2割になると何もできなくなり、祈ることしかできないことも学びましたね。
そうならないように、小さくてもダルマを選択して、周りの大切な人がダルマに生きられる方向に導いていくこともダルマです。
ダルマを選択して生きていれば、誰かが喜び幸せにもなりますが、何よりも自分が喜び幸せでいられますから。
それに気付きながら、その喜び満足安心幸せなあなたに落ち着いていくだけなのです。
だから大きな成功も地位や名声や富も二の次で良いのです。
ダルマに生きていれば成功も地位も名声も富も、ダルマに使う人には入ってくる可能性だってあります。
その努力をする捧げられる行いの楽しさと喜び満足の中で、与えられる結果は
思った通り、
思った以上、
思った以下、
予想外
の4つのうちいずれかです。
もっと良ければとか、もっとたくさんとか、これっぽっちなど我欲ばかりになり執着と願望が満たされないために不満になり、落胆し、恐れと不安にもなるのです。
執着を識別して、行いをイーシュヴァラに捧げてイーシュヴァラから与えられる循環の中で、ダルマに沿った願望を叶えることに向かって頑張ることも努力することも、その結果も満足して過ごすことができるのです。
Bhagavad Gita Vol.2
यततो ह्यपि कौन्तेय पुरुषस्य विपश्चितः ।
इन्द्रियाणि प्रमाथीनि हरन्ति प्रसभं मनः ॥
yatato hyapi kaunteya puruṣasya vipaścitaḥ |
indriyāṇi pramāthīni haranti prasabhaṃ manaḥ || Ver.60
おお、アルジュナよ!なぜなら、たとえ努力をしてきていて、はっきりとみている人ですら、その強力な感覚器官は力尽くで考えを連れ去ってしまいます。
तानि सर्वाणि संयम्य युक्त आसीत मत्परः ।
वशे हि यस्येन्द्रियाणि तस्य प्रज्ञा प्रतिष्ठिता ॥
tāni sarvāṇi saṃyamya yukta āsīta matparaḥ |
vaśe hi yasyendriyāṇi tasya prajñā pratiṣṭhtitā || Ver.61
自分の支配のもとに全ての感覚器官を保っていて、識別の能力を授かっている人、私に対する熟考がある人が(その熟考に)とどまりますように。全ての感覚器官を支配下に置く人にとっては、この知識は十分に成し遂げられています。
ध्यायतो विषयान्पुंसः सङ्गस्तेषूपजायते ।
सङ्गात् सञ्जायते कामः कामात् क्रोधोऽभिजायते ॥
dhyāyato viṣayān puṃsaḥ saṅgas
teṣūpajāyate |
saṅgāt sañjāyate kāmaḥ kāmāt krodho’bhijāyate || Ver.62
क्रोधाद्भवति संमोहः सम्मोहात् स्मृतिविभ्रमः ।
स्मृतिभ्रंशद् बुद्धिनाशो बुद्धिनाशात् प्रणश्यति ॥
krodhād bhavati sammohaḥ sammohāt smṛtivibhramaḥ |
smṛtibhraṃśād buddhināśo buddhināśāt praṇaśyati || Ver.63
何かを思う人に、それに関しての執着が生まれます。執着から欲求が生まれ、欲求から怒りが生まれます。怒りから妄想が生まれて、妄想から記憶が失われます。記憶がなくなってしまうので考えは無能になります。考えが無能である時、その人が破壊されます。
रागद्वेषवियुक्तैस्तु विषयानिन्द्रियैश्चरन् ।
आत्मवशैर्विधेयात्मा प्रसादिमधिगच्छति ॥
rāgadvesaviyuktais tu viṣayān indriyaiś carat |
ātmavaśyair vidheyātmā prasādam adhigacchati || Ver.64
しかしながら、物質世界の中で動きながらも、感覚器官を自分の統制下に置き、好きと嫌いから自由を得ていて、考えが統制されている人は、穏やかさを得るでしょう。
प्रसादे सर्वदुःखानां हानिरस्योपजायते ।
प्रसन्नचेतसो ह्याशु बुद्धिः पर्यवतिष्ठते ॥
prasāde sarvaduḥkhānāṃ hānir asyapajāyate |
prasannacetaso hyāśu buddhiḥ paryavatiṣṭhate || Ver.65
考えが穏やかである時、落ち着いている考えである人の知識は、すぐに成し遂げられるので、全ての苦しみや悲しみの破壊が起こります。