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お互いに自分を見ている

ヴェーダーンタ勉強会九十九里Q&A

Q.
先日、知人に良いと教えてもらったSNSを配信している方の、日々自己啓発や心が軽くなる考え方だと言っていたのですが、あまりに酷い内容でした。
フォロワーが18万人もいて、読んでいる方の心に響いているのだとしたら、なんとアダルマな考え方が伝わっているのだろうと…
その方は自分にマウントをとってくる相手がいたら、相手はそういう考え方をする人だから見下げればいいと配信していました。
読み間違えかと思って、読み直したくらいです。

先生のお話しを聞くようになってから、家族とは本当によく話しをするようになりました。
ネットには膨大な情報が溢れていて、どれを信じたら良いのかわからない中で、このような教えに出会え、それを大切な家族に伝えられることは本当に幸せです。

A.
18万人もそういう人に感化されていると、偏見なく平等に全てを見ることやダルマに生きて誰もが幸せで、当たり前に満足に生きることを話している人が非難されてしまうこともありますね。

言い方一つで変わりますね。

マウント取る人の心の未熟さ、過去の記憶を通して間違いを上乗せして見ていること、イーシュヴァラが見えないために、自分が自分を信頼できず認められず否定し馬鹿にしているために、相手がそう見ていると捉えてしまいますが、そう見られると勘違いしてマウントを取って弱い心を強く見せようと誇大的になるのです。

そういう自分に気がついて、上乗せしていることを識別して、本当のことをきちんとあるがままに見る目を養っていくことが大切なのです。

心の動きをよく見ていれば、その人がそうする理由も理解でき、穏やかに見守り、自分の立場によって、そのまま穏やかに話をするか、特に積極的に話す必要がないか、間違った見方を自分で気付いてもらうために伝えるかです。

見下している時点で、目の前にいる人はイーシュヴァラであり自分自身ですから、結局のところ自分を見下しているのです。

間違った主観の中で見て、お互いに自分の間違った見え方を投影し合っているのです。

それを識別して、イーシュヴァラを見ることの大切さを物語っていますね。

自分の考えだけで人を判断して見て狭い視野で主観的な間違い、偏見を見て怒りや排除しようとすることや、見下したり馬鹿にしたり、勝手な思い込みで物を言うということが目立ちますね。

間違った捉え方見え方の世界にとどまっている人たちが幸せな自分を見られるよう目を覚ますために、私たちに何ができるかは、自分がダルマに生きて幸せだと正しく理解し、愛そのもので穏やかに落ち着いて冷静に淡々と物事をこなしながら、イーシュヴァラである全てに、人や自然に調和し貢献し続け、その恩恵を授かっていることへの感謝を持ち生きることが喜びであること、その生き方を通して周りの人にも幸せでいてもらうことなのです。

そして、間違った方向ばかりを見ている人たちであっても、何かのきっかけで幸せな自分に目を向けて耳を傾けるときに話を聞いてもらえるように、きちんとした手段で物事の道理に沿った方法で、焦らずにできることをしていくことなのです。

そういう方法も何もかもがイーシュヴァラから与えられてきます。

それを受け取り、また与えていく行いをして、できることをできる時にできるだけやるということなのです。

だから私たちは、今、この瞬間、この場所で、できることをしているのです。

多くの人に認めてもらうためにSNSをやっている人はたくさんいますが、真実の幸せはそんなに多くの人には分からないのです。

だから、そういう方向に流されていく人は、その時はそれまでなのです。

それでは本当の幸せになれないことをその人自身で見極めない限り、分からないのです。

真実は無理に押し付けるようなものではないので、その人の心の準備ができたときに話を聞くことができるようになります。

いつでも聖典は逃げも隠れもせずにあります。

そういう人たちが、自分の上乗せしている間違いに気付いて、自分をバカにするものもなければ認められないと思っている世界は自分で作り出していることを知り、あるがままに物事を見て、自分の愛と喜びに落ち着いていけるように祈ることの大切さを知ってほしいと願っています。

私たちは、そういう人たちが間違いを上乗せしてあれこれ言うことも理解して、誰かにどう見られるかや言われるかを気にすることよりも、変わらずに穏やかで安心した日々を過ごしていられることに感謝をして、その祈り深い心が人生のゴールを理解するということにとどまることに尽きるのです。

そうして生きていれば、必ず間違った方向に見極めを付けて、こちらに向いてくる人が現れて話を聞いてくれるようになります。

大半の人たちが偏見の渦の中で、自分の考えの汚れを見て人に重ねていることがよく分かってきますので、その汚れが飛んできても跳ねてきても、汚れることなく、動じることなく、純粋で清らかに祈り深い心で、偏見を重ねる人にも愛と優しさを持って全てにイーシュヴァラを見ることだけです。

人間に生まれてきた以上、必ず心は成長していきます。

どのような人にも平等に分け隔てなく、同じ意識が満ち満ちていて、喜びや満足の自分自身は常にあります。

誰もが幸せに向かって成長していけますように。

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