KAMALA YOGA BLOG

ヴェーダーンタを学び始めて1年で喜びに変わってきた皆様の声

皆様とヴェーダーンタ勉強会九十九里で学び始めて1年が経とうとしています。

最近は活発なご質問がたくさん出てきて、理解したいという願望と、少しずつ理解に繋がってきた喜びで人生が幸せに変わっています。

自然と喜びの言葉が続々と溢れてきて、とても嬉しく楽しい学びになっています。

一緒に学んでくださる皆様には、心から感謝しています。

土日早朝5時〜7時で、バガヴァッドギーター第2章、日曜日8時〜9時半で、バガヴァッドギーター第15章開催中です。

途中からのご参加も大丈夫ですので、お気軽にメールにてお問い合わせ下さい。

kamala0yoga@gmail.com

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Q.1
シヴァとシャクティ、これは、ブラフマンとマーヤーの事になるのですか?ブラフマンは「彼」と言っているから男性ですか?

A.1
ここではBG2-47p230「そのブラフマンは、パラメーシュワラであると考えられます。」と言っていることから、男性名詞になっています。ブラフマンはそもそもは中性名詞ですが、パラメーシュヴァラと考えられるときには男性名詞で、奥さんのパールヴァティーがこの世界の全ての現象を可能にしている知識と能力で、それをシャクティと言いますが、シャクティは女性名詞だけど、男性名詞のブランマージー、ヴィシュヌ、シヴァの創造、維持、破壊するための能力や資源とそれに関わる知識全てで、その3つの能力の全てを併せた能力が、シャクティなので、結局男性性と女性性が常に共にあるのですね。

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Q.2
今日仕事が終わって直後感情がざわつき、いつもならぎゅっと止めるところを何にざわついてるのかを見ていくと、どうやら仕事相手の対応があまりにそっけなかったので、よくあることなのですが、ああ認められなかった…と自分を否定されたような感覚でちょっとしたイライラとショックだったようです。自分で自分にヨシヨシして言い分を聞いていき、その人達のそれぞれの立場や見え方があること、自分の上乗せした見え方を理解していったら、もうあっとゆうまにその気分は移り変わり穏やかになりました!
普段、抑圧する癖があることに気づけたのと、イーシュヴァラに解消するとこんなにも早く幸せを感じられるのだと気づけました。
抑圧していたら、あのざわついた感情はもう少し長引いて、何かの瞬間にまたちらついたかもしれません。
こう言う事をどんどんやっていこうと思えました。
こんな機会を与えてくれたイーシュヴァラに感謝です!そんな気づきでした。

A.2
ただクラスを聞いているだけだと、どうしても自分の上乗せした小さな考えの中で解釈しようとしてしまいます。それでは間違ったままになり、本当の理解にはならないので、心の動揺や悩みなどもオープンにしながら、そういうときにはどうしていけば良いのかや、言葉の理解などを少しずつ表現していきながら、自分だけでなんとかしようとせずに必ず対話をしながら、どうしてそう見えているのか、相手の言葉の意図や、自分の解釈が上乗せした見方を重ねて間違っていないかを確認しながら正していくことがとても大切になります。その繰り返しで、間違った上乗せした見え方から歪んだ考えで捉えてしまうことからも自由になります。
ですので、聖典の中でもずっと言われているのは、シュラバナ、マナナ、ニディッデャーサナ、先生との対話をして熟考することです。それによって自分自身の真実を理解することができていきます。それをしていけば、こんなにも識別することができて考えが綺麗になり、個人の私と意識とのつながりが見えてきます。

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Q.3
自尊心についてのお話しで、やはり浮かぶのは子供の頃のことです。
自分が自分を認めてあげることが出来ず、いつも母の評価、母に認められるとことで自分の価値を決めていたので、ずっと承認欲求が強かったです。
大人になってからは、社会的なステータス、仕事や家庭である程度の地位や幸せを持っていることが自分の安心材料でした。
今もまだその価値観に引っ張られることは多々ありますが、人からどう思われるかではなくて、自分の心に「自分はどう思う?」と問うことを心がけています。
同じ仕事でも、上司、同僚に認められたいから頑張るのと、誰かのために頑張るのとでは、やはり行いの種類は違いますよね…。
そしてまた、限界があることを理解し、周りに助けを求めることも大事だな、と思いました。
何でもかんでも自分で背負って、苦しくなって、結果としてイライラした気持ちを周りに当ててしまっては、パーパがたまる一方ですね。
幼少期の体験を、5歳児のように当たり散らして母のせいだと責めたことは、私にとっては恥ずかしい過去ですし、母を傷つけたと思います。そんな私に「そう思ってたんだね。ごめんね」と言ってくれた母を思い返すと、なんとも恥ずかしい気持ちになります。
自分を等身大に見て、それを認めることが私はずっと出来なかったので、そのままで良いことがわかった今、とても気持ちが楽です。ありがとうございました。
この気づきは私にとっては、今まで生きてきた今世のあれやこれやを解消してくれた、素晴らしい出会いです。この1年で目の前の世界が変わりました。私の姿、形は何も変わらないのに不思議なものです。
気づきを与え、いつも優しく大きく受け止めてくださる先生に感謝しかありません。

A.3
きちんと識別して自己分析できて親に対しても反省して気付けていますし、お互いの願望と執着を解決するためにも、ある程度伝えてわかってもらいながら気持ちの整理をすることができたのですね。
行いの選択を承認欲求ではなく、自分の能力を人のため全体のために役立てるというダルマの目的で使っていけば、自分観と世界観に間違いを上乗せして認めてもらえないことで怒りになる必要もなく、役に立てていること、個人の力を小さくても発揮できて喜んでもらえていることの喜びがありますよね。それがダルマの喜びです。
幼い時の経験によって自分のことを客観的に見ることができているので、またそれが他者への理解に変わっていきますので、成熟していくとそれも良い経験だったと気付けます。それもカルマの法則でイーシュヴァラに運ばれています。

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Q.4
育児に悩まされて苦しかった時に、先生に出会ってヴェーダーンタを学べる事ができたのはイーシュワラが導いてくれたとしか思えません。本当にこの学びで心が楽になり学んでいてとても楽しいです。
まだまだジーヴァが出でしまい自己嫌悪になってしまいますが、既に与えられている事に常に感謝できるように、旦那にも子供達にも感謝を伝える事を忘れない様にしたいと思います。

A.4
イーシュヴァラがいつも悩みや苦しみとしても与えてくれて、それを乗り越えて成熟していけるようになり、精神的な自立ができるようになったのですね。あなたがいつも喜びと満足で笑顔で過ごせることが、家族や周りの人にとっても一番幸せなのです。

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Q.5
今回の学習はとても心にまっすぐ入ってきました。「あなたは行いの作者であって、結果の作者ではない」「人は皆能力に限りがある。それを向上させる努力をする事はできる。足らないところは人に頼む。丁寧に相手を尊重して感謝してお願いする。みんな誰でも足りないところを持っている。 皆んな足して一つである」これ良いですね。 もう自己肯定感もあがるし、お互い尊重しあえて笑顔の交換が生まれます! いつもこの考え、気持ちを持っていれば毎日楽しく幸せだろう!と感じました。 必要以上に落ち込む事も舞い上がる事も無く平穏で満たされた日々。今、私が関わっている仕事がまさにこの環境です。 みんな協力的で向上心があり温かく、共に助け合いながら個々で成長しあおうと頑張っています。

A.5
間違った自分観を上乗せして見ていたから、行いの動機が足りない自分に付け足さないといけない状況から、人と比べたり羨んだりして自分を小さく見下げてしまっていたのですね。行いの選択をダルマにしていけば、誰かと比べる必要もなく、自分のやるべきことに専念しながら、失敗も成功も全てはイーシュヴァラから与えられていて、自分の心の成長のためにあり、少しずつ考えを綺麗にすることができていくのですね。そうすればいつでも喜びの中に居ることができますね。
常に、私はまた嫉妬してるな、羨ましがっているな、と間違った自分観を上乗せしている考えの癖を眺める視点にとどまり、まずは広く限りのない空間にイーシュヴァラを思いながら解消する練習をして下さいね。

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Q.6
アートマーもアナートマーも全体だよというのは、たった一つの意識である目撃者、私自身、サッテャンでありアートマーであるブラフマンが、マーヤーを使ってイーシュヴァラとして現れているこの世界、個人、全てはミッテャーでアナートマーであるけれど、ブラフマンは全ての源でありながら材料でもあるからミッテャーの世界の全てに満ち満ちていて、アナートマーもアートマーも全体だよと言うことで良いでしょうか?意識=全体ですか?

A.6
カーラナ宇宙、マーヤーが、全ての質の可能性であり全ての質が現れる原因で、ウパーダーナ・カーラナと言います。物がひとりでに作品となって現れたりしないように、このウパーダーナ・カーラナがひとりでに、この知的な地球を含む宇宙全体という作品として現したり現れたりできません。そこにはもうひとつ、ニミッタ・カーラナと呼ばれる知的原因があり、それこそが、存在意識、サット・チットだと聖典は言います。
この宇宙とは100%意識で、意識が「ある」なので、「ある」がミッテャーに染まっているのではなくミッテャーとはサッテャムなので、サッテャムだけがあります。ミッテャーはあたかもありますが、真実はあなただけが「ある」のであなたが全体なのです。

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एतद्योनीनि भूतानि सर्वाणीत्युपधारय ।

अहं कृत्स्नस्य जगतः प्रभवः प्रलयस्तथा ॥ ७-६ ॥

etadyonīni bhūtāni sarvāṇītyupadhāraya |

ahaṃ kṛsnasya jagataḥ prabhavaḥ pralayastathā || 7-6 ||

生きとし生ける物たちやそのエレメントたちは、それらの源をこの2つの側面のプラクルティに持っている事を理解しなさい。
(ですから)私から全ての世界が現れていて、同じく、全ての物事が私に解消している、それが私なのです。7章6節

「この前の詩で、クリシュナは、『私が創造宇宙全体の源であり、解消の源である』と言いました。自分が源であると神が言う時、どのような事を彼は意味しているのでしょう? 彼は、ひとりの生き物として、ニミッタ・カーラナとして、創造者であり、その中に全てが解消する人であり、そして、その人によって全てが支えられ得ている人であり、彼がこの3つの側面の原因です。
では、何がイーシュヴァラなのでしょう? あなたが、個人としてジャガット・世界を見る時、当然、あなたは肉体、考え、感覚器官を持つ人です。世界はそこにあります。全てのこういった事のためには、私たちがマーヤー・ ウパーディ(質を与えるもの)と呼ぶ源、原因を必要とします。この全世界の姿の中で、マーヤーを伴う、サッテャム ニャーナム アナンタム ブラフマがパラメーシュヴァラです。
シャーストラ聖典が原因、源を分析する時、私たちがスヴァルーパと呼ぶもの、つまり、まさに原因、源の本当の姿を明かします。そのために、それは異なった定義を合わせて持っています。サッテャム ジニャーナム アナンタム ブラフマ。これらは定義する言葉ですが、これらのどれもが、固有の質をもたないことを、あなたは知る事でしょう。実際、これらの言葉が全ての属性を否定します。ですから、言葉によって私たちが知っている全ての性質が否定されて、源、ブラフマンは、ニルヴィシェーシャ、つまり、性質から自由なものとして明かされます。こうして、まさに原因、源がニルヴィシェーシャ、二元性のあるどのような姿からも自由なものとして示されるのです。」1)

निर्मानमोहा जितसङ्गदोषा अध्यात्मनित्या विनिवृत्तकामाः ।

द्वन्द्वैर्विमुक्ताः सुखदुःखसञ्ज्ञैर्गच्छन्त्यमूढाः पदमव्ययं तत् ॥१५-५॥

nirmānamohā jitasaṅgadoṣā addyātmanityā vinivṛttakāmāḥ |

dvandvairvimuktāḥ sukhaduḥkhasñjñair gacchantyamūḍhāḥ paramavyayam tat || 15-5 ||

尊敬を望むことや妄想から自由な人、愛着の問題を克服した人、いつも自分自身に焦点を当てていて、願望が完全に去ってしまっている人、苦楽として知られる正反対の2つから全く自由であり、幻想の中にいない人は、あの滅びる事の無いゴールに行きます(ゴールを得ます)。 15章5節

「ニルマーナモーハ・尊敬の要求から解放された人々は、マーナ・尊敬を要求することとモーハ・妄想から自由な人たちです。これから自由であるために、私たちはなぜ、尊敬を要求するのかを分析しなければなりません。それには理由があります。他の人からの批判の気配だけでも耐えることができないほど、私たちは自分自身に対してとても批判的であるかもしれません。自分が尊敬に値する資質を持っているとしても、もし自分が自分の価値を認める適切な感覚を持っていなければ、私たちは外側にそれを求めるでしょう。これが様々な方法で表現され得ますが、そのうちの1つが、他の人からの尊敬を要求することです。これを克服するために、傷ついた自己イメージを癒すことで、相対的なレヴェルでの自尊心(自分が自分の価値を認める感覚)が達成されなければなりません。
モーハは、間違った価値を物事に見る事です。私たちは、物事や状況に、それらが持たない価値を上乗せし、結果として失望を感じます。本当ではない価値の数々のために、私たちは平静さをなくして世界を見ます。ヴィチャーラ・適切な探究によって、私たちはあるがままに物事を見る能力を得ることができます。こうして、尊敬を要求する考え、客観性の無い考えから自分自身を解放した人々がニルマーナモーハ・尊敬の要求から解放された人々と言われます。
ジタ・サンガ・ドーシャとは、関わりが持つ欠陥を征服した人たちです。それが無いとあなたが不完全さ を感じる物は、どのような物も、あなたがサンガ、つまり、執着を持つ物です。探究と成長によってのみ、それは克服され得ます。ジタという言葉を使って戦われるべき戦争があることをほのめかしています。これは本当です。しかし、それは純粋に認識に関する戦いです。私たちは、自分たちが執着している 物事全体を本当は知りません。私たちがそれらを失う時にだけ、私たちはいかにそれらが私たちの幸福の感覚に不可欠であったかを理解します。
もしあなたがそれを分析すれば、本当の執着はありません。物事やあなた自身に対する特別な見方が、束縛の性質を持つ執着や心酔や、あるいは強迫観念ですら作り出しました。適切な探究・ヴィチャーラによってこれらを克服し統括する人たちが、ジタ・サンガ・ドーシャと呼ばれます。
ここで議論されている人々は、スカ・ドゥッカ・嬉しい事や辛い事と私たちが呼ぶものに要約することができる、たくさんの対極なものから完全に自由な人たちです。彼らは、全ての状況の中で和らいでいて、あるがままの事実に向かい合うことのできる考えを楽しみます。結果として、彼らは間違いから自由であって、アムーダ・もはや何にも惑わされていない人たちです。タト アッヴャヤム パダム ガッチャンティ・朽ち果てることの無いあのゴールに到達します。」2) 

षेत्रज्ञं चापि मां विद्धि सर्वक्षेत्रेषु भारत ।

क्क्षेत्रक्षेत्रज्ञयोर्ज्ञानं यत्तज्ज्ञानं मतं मम ॥ १३-२॥

kṣetrajñaṁ cāpi māṁ viddhi sarvakṣetreṣu bhārata |

kṣetrakṣetrajñayorjñānaṁ yattajjñānaṁ mataṁ mama || 13-2 ||

クシェートラ(肉体と感覚器官、心を含む領域)とそれを知る者についての知識が本当の知識であり、それは私のヴィジョン(無知や誤解、混乱のない見え方)です。13章2節

「個人とイーシュヴァラは本質的に同一です。それが認められれば、恐れや悲しみなしにどんな役割を果たすこともできます。もちろん、個人としては歴史があります。あなたはある時期に生まれ、成長し、年をとり、成功することもあれば、失敗することもありました。それはすべて肉体と感覚器官と考えを含む場所で可能ですが、その本質である1つの不変の意識では不可能です。しかし、あなたがイーシュヴァラであるにも関わらずイーシュヴァラではないという小さな分裂をした場合、どこに行っても、何をしても、恐れから解放される可能性はありません。個人として、あなたは死への恐れ、孤立への恐れ、世界に圧倒されることへの恐れを避けられません。あなたはとても多くの心配事を持っているので、あなたにとって内なる休息はありません。
賢い人を知るには、賢くなければなりません。そして、あなたが自分自身の真実を知っている先生の下で勉強するのは、いくらかの恩恵によってのみです。よく頻繁に起こることは、真実を知らない先生を選ぶことであり、これは盲人が盲人を導くことになります。人はいくらかの洞察を持っているかもしれないし、シャーストラ・聖典について非常に学ばれて学識があるかもしれませんし、あるいは、ある妄想の魔力の下で、彼は真実を知っていて他の人に教える立場にあると思うかもしれません。自分で真実を知らない限り、彼が本当に知っているかどうかをどうやって判断できますか?そして、あなたがそれを判断することができれば、あなたは真実を知っていて、先生を必要としません。ですから、人々が、知らない先生の手に渡る方法を理解するのは難しいことではありません。問題は、学習にカリスマ的なアプローチを取ることです。誰かが有名であるならば、彼が従われるに値する価値があるという仮定がしばしばあります。」3)

अमानित्वम् अदम्भित्वम् अहिम्सा क्षान्त्रार्जवम् ।

आचार्योपासनं शौचं स्थैर्यम् आत्मविनिग्रहः ॥ १३-७ ॥

amānitvam adambhitvam ahimsā kṣāntirārjavam |

ācāryopāsanaṁ śaucaṁ sthairyam ātmavinigrahaḥ || 13-7 ||

謙虚さ、偽りのなさ、傷つけないこと、受け入れる、率直さ、先生に対する奉仕、内面と外面の純粋さ、動揺のなさ、忍耐力、精神の習得。13章7節

「マーナーは傲慢、自己賞賛、アートマナハ シュラーガナム(褒めて得意にならせること)を意味します。マーニーは、自分の美徳を他の人に知らせ、彼らに承認することを要求する人です。なぜ他の人がそれらを認めるべきですか?与えられた能力の位置に価値がある人だけが称賛されます。私たちの問題の多くは、他の人が私たちの美徳を認めていないことが原因です。承認を求めることは非常に一般的であり、それにはある程度の正当性があります。ある程度の資格があれば、それが認められるのは良いことです。問題は、その承認を要求することにあります。他の人も承認を望んでいるので、私が常に承認の受け手であると主張するならば、私は他の人を正しく承認する立場になく、私の関係には絶え間ない緊張があります。
私がそれを要求するならば、私は感情的な問題を抱えています。なぜ誰かに私の業績を認めるよう要求する必要があるのですか?私自身の意見では、私は本当に何も達成していないと思うからです。客観的には自分が何を成し遂げたかはわかりますが、その原因には、幼い頃から引き継がれている、成功しなかったという感覚があります。この感覚は、親の批判、教師による批判、または健康的な自己イメージの発達を損なう多くの事柄によって引き起こされた、治癒されていない傷のために持続します。自己イメージが低いので、自分の価値を認めるのは非常に難しく、自分の価値を証明するために執拗な努力を重ねることがよくあります。私が非常に重要だと思う他の人が私の価値を認めなければ、私はそれを扱うことができません。これは心の底から評価されるべきです。私がマーニットヴァム・自惚れを持っているということは、非難や自己イメージのさらなる損傷の問題ではありません。それは理解すべきことです。なぜ他人から称賛を得る必要があるのですか?全く必要ありません。これをよく見ることは、承認の要求を減らすのに役立ちます。どんな敬意も自然にやってくるはずです。
もし私が称賛を集めようが集めまいが、私は自分自身を尊敬するので、他の人がそれを与えるかどうかは問題ではありません。人生で本当に重要なのは私がどれだけ成熟しているかだけです。それが私を尊敬すべき人にしているのです。誰も彼を認めていないため、または彼がノーベル賞を受賞しなかったために、悩み怒る偉大な科学者は、ただの子供です。子供たちは他の人が見ているときに自分の成果を披露するのが大好きです。
これは、あなたの可能性を伸ばすことに何か問題があると言っているのではありません。あなたには特定の贈り物があり、それらはイーシュヴァラの栄光として表現されます。しかし、その表現だけではあなたは成熟した人にはなりません。それはあなたがそれをするのが好きだから何かをすることから来ます。他の人があなたを認めてくれることを期待してそれを行うと、彼らの目を通してあなたは誰かになるでしょう。それは子供っぽいです。私は自分の目で誰かでなければなりません。そしてそれは私が成熟したときだけそうなるでしょう。お金や力などがあるかどうかではなく、まさにそれが私を人にしているのです。重要なのは私が自分自身をどう見るかです。私は自分の体を尊敬し、心を尊敬し、感覚を尊敬します。これが私の自己イメージである場合、私は自分の成果を誇示する必要はありません。このクシェートラ・体や感覚器官や心を含む場所は私に与えられた美しい道具であり、それは私がそれを完全に尊重するのに十分な理由です。これは単に心理的な意味での「自尊心」ではなく、私に与えられた美しい何かへの感謝です。それについては祈りがあります。体は芸術作品です。骨格構造は工学の傑作であり、肝臓は化学プラントであり、皮膚はエアコンであり、思考は並外れた驚くべきものです。私たちはコンピューターの能力を称賛しますが、そのコンピューターを作成したのは人間の思考です。肉体的、感覚的、精神的な複合体全体が美しい創造物であり、それをそのまま楽しむ理由は十分にあるので、自分自身を尊重します。自分を尊敬したら称賛を要求しません。心から感謝します。誰に祈りを捧げますか?イーシュヴァラです。この創造物で栄光を放っているのは、イーシュヴァラの栄光に他ならないことを私は知っています。これを知って、祈りの感謝があります。イーシュヴァラの栄光をこのように簡単に理解することで、私は自分自身への敬意を育み始め、自分自身を非難する必要がないことに気づきます。
宇宙全体に意味と知性が見られると、宇宙全体に美しさが吹き込まれます。したがって、身体全体は限られたものではありますが、美しい作品です。それが受け入れられれば、私は自分自身に受け入れられます。 サット チット アーナンダはそれ自体が許容できるものであり、美しいため体も許容できるものです。これが認められれば ニャーナ知識から生まれた自発的なアマーニットヴァ謙虚さがあ​​ります。 クシェートラ領域には私が開発した特定の力がありますが、誰にも何も証明する必要はありません。それぞれが自分自身を表現することができる彼または彼女自身のクシェートラを持っていますが、表現の形式は誰にとっても異なり、そして完璧です。本当に重要なのはそれを受け入れることです。それは成熟度であり、人を美しくするものです。その受け入れがあれば、承認を要求することは決してありません。ここで繰り返したいのは、これはあなたが自分自身を非難することができるという根拠に基づいて、理想とされるべきではないということです。これは判断のためではなく、理解のためです。 誰かの行動のために傷ついたと感じるとき、あなたはそれに対して何らかの責任があるかのようにその行動を内面化します。現実には、あなたは大人としてあなた自身の感情と行動にのみ責任があります。それらが間違っている場合は、いつでも修正できます。しかし、他人の感情や行動に責任を持つ余裕はありません。あなたができる唯一のことは、あなたがそれぞれの人を受け入れることです。すべての人は与えられた背景から来ています。同じ背景で、あなたは同じことをするでしょう。彼または彼女の応答の基礎として他の人の背景を考慮することは成熟度です。」4)

स्वे स्वे कर्मण्यभिरतः संसिद्धिं लभते नरः ।

स्वकर्मनिरतः स्द्धिं यथा विन्दति तच्छृणु ॥ १८-४५ ॥

sve sve karmaṇyabhirataḥ saṁsiddhiṁ labhate naraḥ |

svakarmanirataḥ siddhiṁ yathā vindati tacchṛṇu || 18-45 ||

自分のダルマを喜ぶ人は成功を収めます。 自分のダルマに専念し、成功を収める方法を聞いてください。 18章45節

「これはすべてカルマ・ヨーガの一部です。 シャンカラは言います。アビラティ・喜びをコミットメントとして楽しみを持って自分のダルマに完全に熱中している人です。 これは、自分のダルマを果たすことに専念し、それを楽しむ人です。 彼は自分がやるべきことをすることから来る満足を経験するだけでなく、自分がすることに本当に満足していて、他の誰かの仕事をしたくありません。 当然、彼は成功を獲得します。これはここでは内側の道具である考えを綺麗にすることです。 カルマが関係しているのでそれはモークシャになることはできません。そしてアートマンの知識を得る人だけがモークシャを得るのです。
人間の成功とは何ですか? まず、それは成熟した個人になることです。 風船が破裂して泣いている45歳の子供を想像してみてください。 この人についてどう思いますか? ばかげているように見えますが、私たち全員にこの種の子供がいます。 成熟した人はすべてのカルマを同じものとして見ます。私がしていることを変えたいときはいつでも、問題は私がしていることではなく私にあることが多いです。 ある状況では自分を受け入れることができず、実際には自分が嫌いなのに、自分の仕事が嫌いだと思います。 そうなると、私が何をしても問題が発生します。 特定の人にとって他の仕事よりも適している仕事もありますが、それは仕事とは何の関係もありません。 自分がしている仕事を楽しみ始めたら、他のどんな仕事もあきらめることができますが、仕事の切り替えが頻繁に行われる場合、問題が他の場所にあることは明らかです。 状況を変え続けても、どれも気に入らない場合は、問題はあなたにあることを意味します。 それは状況とは何の関係もありません。 あなたは同じ不満を持っているので、どこへ行っても、何をしても変わりません。 全体の問題は「私」に他なりません。それがあなたもそれを解決できる理由です。 何か、または他の誰かが問題である場合、解決することは不可能です。 これの大きな祝福の1つは、問題が私であることがわかったときに、解決策が利用できることです。 私は自分自身に対する態度を変えることができます。 今私に期待されていることは、私はただやって、それを楽しんでいます。 献身と満足をもって自分の義務を果たして人生を送る人は、アンタッカラナシュッディ・考えを綺麗に整える面で成功を収めます。準備ができたら知識を得るのに支障はなく、それによって人生のゴール、モークシャになります。」5)

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【引用文献 】

1)BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第7章 Swami Dayananda Saraswati 著 Swami Cetanananda Sarasvati 訳 P40-42

2) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME8 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第15章) Swami Dayananda Saraswati 著  Swami cetanananda Sraswati 訳 P85-87

3)Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME7 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第13章) Swami Dayananda Saraswati 著 P282-283

4) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME7 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第13章) Swami Dayananda Saraswati 著  P360-361

5) Teachings of Swami Dayananda BHAGAVAD GITA VOLUME9 (HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第18章) Swami Dayananda Saraswati 著  P170-173

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