根本的な解決をしない限り、満たされないと勘違いしている自分を外側から得ては満たそうとする行いと結果を求める願望には終わりがありません。
自分が自分を認めて、自分を尊く愛おしい存在として自尊心と自己愛を持ち、完全な自己受容をするまで、いつまでもその足掻きは続きます。
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ヴェーダーンタ勉強会九十九里
質疑応答
Q.
【カーマ・願望=私達の五感を喜ばせてくれるもの、エンタメや娯楽、食事や旅行など】を求めることで、本当の幸せを得ることはできないということが本当にそうだよな、と納得しましたし、人やお金や自分以外のものに頼ることが移り変わりのあるものであり、本当の幸せではないことは愛の授業の教えとも重なりました。
質問ですが、カーマとは人間の欲望を満たすために時代や文明の発展とともにつくられたものだと思うのですが、これからどんどん自動運転や人工知能を搭載したロボットなど環境が目まぐるしく変わっていくことが予想される中で、それによって悪い面もあれば、私達に多大な恩恵を受ける場面もあるかと思います。
時代によって移り変わることを必要とし、求めることもカーマに当たるのでしょうか。
A.
人工知能やロボットは、今や色々な場面で必要なことも多いですよね。
パソコンでの仕事やオンライン業務も増えて、今や手放せないですよね。
病院や役所などの公共機関でもニーズは高まっていますし、超高齢社会になり、介護する人手不足が深刻な問題になる中、そのような人工物に頼らざるを得ないことも多々あると思います。
しかし、本当にモークシャを得るために、どう生きるかを考えたときに、自然と共に生活しながら、自然からの恩恵を頂き、自分の体を自然の一部として大切にする食生活を心がけていれば、病気も介護も必要のない将来も得られることが期待されます。
何より、体への執着から解放されれば、実際のところ、全うに社会貢献していれば、満足にやり遂げて人生を充実して終えることができますので、介護施設も病院も必要なく、体が朽ち果てる時でさえも安心して過ごすことができ、幸せで喜びの自分自身にとどまることができます。
まだ色々な物事に目が行くと思いますが、一つ一つ、余計な物事に手を伸ばしていないかを見ていきながら、本当に必要なものを大切にしながら、無駄に食べたり消費したりしていることを手放していけると良いですよね。
その上で、好きなこともやりたいこともダルマの中でやっていけば良いのですよ。
実際のところ、機械に頼ったり、コンピューターに依存していることが多くなり、人間が本来発揮できる知的活動が低下していることも考えられます。
一度楽をすると、もっと楽なことを求めてしまい、頼ってしまいますよね。
多様化というのも、根本的な問題を解決しない限り、枝葉は広がっていく一方です。
自分自身に頼って自立して生きていくためには、そのような識別も必要ですよね。
先日、とある大学院の研究で、薄味の味噌汁を飲むのに不味いと感じる人のために、飲んだ瞬間に塩味を感じる電気刺激を加えるといった箸を開発している話題を目にしましたが、味覚刺激が強くないと食べたくないという贅沢な発想を識別する方が大切ですが、それができない人も多いのが、裕福な国の人々に多いですね。
好きなものを食べて美味しいものを食べて、味のしないものは不味いと食べず、お酒やタバコをやめるくらいなら死んだ方がが良いと言う人はたくさんいます。
それが贅沢病である慢性生活病習慣と言われるもので、心筋梗塞や脳卒中、糖尿病の二次的障害によって社会生活が困難になる人も多く、その保障や対応、予防に国の税金が莫大に使われています。
人間が本来持っている自由意思を、ダルマに使う機会すら失ってしまっていますよね。
また例えば、生理の出血がひどいから、超高吸収素材のナプキンを消費し、さらに開発を続けていくと、女性が本来出血をコントロールする力を失っていきます。
骨盤の歪みなどで出血は増えて貧血が進むことや、科学的根拠は乏しいですが、肌につけるナプキンも衣料品も化粧品やシャンプーもケミカルなものを使用することで体内に経皮毒と言われるものが蓄積しやすくもなり、体と心の不調にもつながり、環境破壊にもつながります。
何事も、外側に依存すればするほど人間が本来持っている能力を全て打ち消してしまっている可能性が高いです。
同じように、色々なことが便利になればなるほど、本質的なことを見失っていきます。
何が一番大切なのかを、日々考えながら、自然への感謝の気持ちを常に持っていられると良いですよね🍀
Q.
確かに、、様々な病気や介護されないと生きられないのは、現代生活の中で大量の砂糖や安価な材料を使った加工物を売り、自然と調和しないものを美味しさや利益のために追求した結果ですよね、、
同じように人工知能やロボットも便利さを追い求めるだけに走っては、失われる職種が出てきて存在価値が見失われたり、楽な方向ばかりに走ってやるべきことをやらないということにもなりますね、、
ヴェーダーンタで教えられている自然と調和する生き方に忠実に従ってそこに感謝しながら日々を過ごしていこうと改めて思いました。
また本日の授業では、願望が達成されるとき、知識が隠れるというところが、とても印象的に残りました。
何かを意地でも叶えたいとか執着になっているとき、人間としての自由意志や知性は本当にどこかに行っていると、過去を振り返ってそう思うことがありました。
反対に何かになりたいとか、あの大学に合格したいとかそういった願望を持ち、いろんな知識が付いてくるという経験は、願望のために正しい努力をした場合は知識は隠れない、ちゃんと現れるということなのでしょうか。
知識が隠れる場合と、反対にその人にちゃんと現れる場合で、願望の持ち方が違うと思うのですが、ここをしっかり言語化できていないので、教えていただけると嬉しいです。
A.
同じことをしていても、その大学に行ってその知識を得て社会貢献したい、つまり与えたいと思う願望で受験するのか、それとも、その大学が地位や名誉として自分を大きく見せるためなのかにもよります。
もし落ちても、そこに行くよりも私にとってふさわしい道があるのだと受け止められれば、妨げられて怒りにはならないですよね。
それが反対に、結果が得られずに怒りになって、来年も再来年も執着して受け続けていたら、それは知識も隠してしまいます。
後者が、例えば有名大学に合格することが目標だった人が、実際に入学しても意義を見出せずに自殺する人も多く、社会にも出られない高学歴ニートや引きこもりの人たちもまたたくさんいます。
親のコンプレックスを子供で解消するために、幼い頃から勉強漬けにしたり、成績優秀に育て上げるために気付かぬうちに競争社会だと植え付けられてきたり、どれだけ努力してももっと頑張れと、自分の今の努力を認めてもらえずに、ずっと何かを追いかけるような生き方を強いられてきたりしたことも考えられます。
若しくは、生まれ持った性質による物事の捉え方の癖があります。
大学はどこであれ、社会貢献のために資格が必要で、その努力がイーシュヴァラに捧げる喜びと人や自然に与える喜びのために追い求めるのはかまいません。
イーシュヴァラから与えられるプラサーダとして、どのような結果も私にとってふさわしいものなのだと受け入れられる素直な心が大切です。
結局のところ、自分が自立して満足な存在なのだと理解しない限り、外側からいくらものや体験で隙間を埋めるように満たそうとしたところで、一時的な満足でどうやっても埋まらず、また満たそうとする行いは続きます。
人から認められたい、賞賛されたいと努力を重ねて認められても、その飽くことのない願望には終わりがありません。
自分が自分を認めて、自分を尊く愛おしい存在として自尊心と自己愛を持ち、完全な自己受容をするまで、いつまでもその足掻きは続きます。
Q.
今の自分の与えられた環境でやるべき事をする、与える。
更に新しい事をしたい時は周りと不調和を起こさず、できる状況、自分のキャパシティ内で
ダルマであればチャレンジしても良いとの理解でよろしいでしょうか?
A.
そうですね。
今与えられているチャンスであれば、まずイーシュヴァラに捧げる努力をして、自分に宿る知識や技術が、イーシュヴァラから与えられているプラサーダとして感謝ができて、またそのスキルを人の喜びに貢献できる与えることになり、自分が喜びになっていれば良いです。
その時に、人と比べたり、人よりもよく見られるためとか、認められるために行っていないか、結果に執着しすぎて大事なことを見失っていないかなどをよく見て行くことが大切ですね。