ヴェーダーンタ勉強会九十九里
質疑応答 アヴィヴェーキー・識別のない人たち
Q.
毎回のクラスで、するべきことをやりなさい、まずは与えなさいという言葉をいただき、日常生活でもすぐにその言葉が出てきては、行動を見返してダルマに従うというのが少しずつ実感できるようになった気がします。
今目の前で起きている良いも悪いも全てのことをプラサーダーとして受け入れ、自己嫌悪に陥るのではなく、反省しては次に活かすことをもう少し早いサイクルで判断できるようになっていきたいと思いました。
154ページで、アヴィヴェーキーの人々のことを、彼らの追求したいことを追求するようにさせること、それ自体が祝福であると述べられていました。
一方で、Verse12では与えられたものを楽しむ人は泥棒であると厳しい言葉で述べられている箇所がありました。
この言葉の違いはどこにあるのでしょうか。。?
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バガヴァッド・ギーター第3章
इष्टान् भोगान् हि देवा दास्यन्ते यज्ञभाविताः ।
तैर्दत्तानप्रदायैभ्यो यो भुङ्क्ते स्तेन एव सः ॥ ३-१२ ||
iṣṭān bhogān hi vo devā dāsyante yajñabhāvitāḥ |
tairdattānapradāyaibhyo yo bhuṅkte stena eva saḥ || 3-12 ||
ヤッニャ(儀式)によって宥め安らげられた神々は、あなたに望みのものを与えてくれるでしょう。
ですから、彼らに捧げることなく、彼らによって与えられたものを楽しむ人は、まさに泥棒なのです。第3章12節
अन्नाद्भवन्ति भूतानि पर्जन्यादन्नसम्भवः ।
यज्ञाद्भवति पर्जन्यो यज्ञः कर्मसमुद्भवः ॥ ३-१४ ||
annādbhavanti bhūtāni parjanyādannasambhavaḥ |
yajñādbhavati parjanyo yajñaḥ karmasamudbhavaḥ || 3-14 ||
生き物たちは食べ物から生まれます。
食べ物は雨から生まれ、雨はヤッニャ(良い行いの結果・プンニャ)から生まれ、
そして、ヤッニャ(良い行いの結果・プンニャ)は行いから生まれます。第3章14節
एवं प्रवर्तितं चक्रं नानुवर्तयतीह यः ।
अघायुरिन्द्रियारामो मोघं पार्थ स जीवति ॥ ३-१६ ||
evaṃ pravartitaṃ cakraṃ nānuvartayatīha yaḥ |
aghāyurinfriyārāmo mogham pārtha sa jīvati || 3-16 ||
このように、この人生の中で、既に動かされている宇宙の循環に従って生きないで、
感覚器官の喜びだけに没頭した罪深い人生を生きる人は、無駄に生きます。第3章16節
यस्त्वात्मरतिरेव स्यादात्मतृप्तश्च मानवः ।
आत्मन्येव च सन्तुष्टस्तस्य कार्यं न विद्यते ॥ ३-१७ ||
yastvātmaratireva syādātmatṛptaśca mānavaḥ |
ātmanyeva ca santuṣṭastasya kāryaṃ na vidyate || 3-17 ||
しかしながら、自分自身の中に喜びがある人、
自分自身に満足していて、自分自身に満たされているであろう人は、
その人にとってなすべきことというのがありません。第3章17節
नैव तस्य कृतेनार्थो नाकृतेनेह कश्चन ।
न चास्य सर्वभूतेषु कश्चिदर्थव्यपाश्रयः ॥ ३-१८ ||
naiva tasya kṛtenārtho nākṛteneha kaścana |
na cāsya sarvabhūteṣu kaścidarthavyapāśrayaḥ || 3-18 ||
そのような人(自分自身の中に喜ぶ人)にとっては、この世界において、
行いをすることや、行いをしないことによって叶う目的が全くありません。
また、そのような人は、どんなものにも依存はしていません。第3章18節
सक्ताः कर्मण्यविद्वांसो यथा कुर्वन्ति भारत ।
कुर्याद्विद्वांस्तथासक्तश्चिकीर्ष्र्लोकसङ्ग्रहम् ॥ ३-२५ ||
saktāḥ karmaṇyavidvāṃso yathā kurvanti bhārata |
kuryādvidvāṃstathāsaktaścikīrṣurlokasaṅgraham || 3-25 ||
ああ、バーラタ(アルジュナ)よ、ちょうど行いの結果に執着する
知識を得ていない者たちが行いをするように、
人々を守りたい願望を持ち執着のない賢者は、行いをするでしょう。第3署25節
न बुद्धिभेदं जनयेदज्ञानां कर्मसङ्गिनाम् ।
जोषयेत्सर्वकर्माणि विद्वान्युक्तः समाचरन् ॥ ३-२६ ||
na buddhibhedaṃ janayedajñānāṃ karmasaṅginām |
joṣayetsarvakarmāṇi vidvānyuktaḥ samācaran || 3-26 ||
知識にしっかりと留まっているヴィッドヴァーン(賢者)は、
行いの結果に執着している無知な人の理解に妨げを作り出すべきではありません。
自分自身で全ての行いを上手に行なって(無知な人が全ての行いをするよう)励ますべきです。第3章26節
मयि सर्वाणि कर्माणि सन्न्यस्याध्यात्मचेतसा ।
निराशीर्निर्ममो भूत्वा युध्यस्व विगतज्वरः ॥ ३-३० ||
mayi sarvāṇi karmāṇi sannyasyādhyātmacetasā |
nirāśīrnirmamo bhūtvā yudhyasva vigatajvaraḥ || 3-30 ||
識別のある考えを持って、私の中に全ての行いを手放して、未来に関しての期待や、
「私の物」というあらゆる感覚を取り除いて、どのような怒りも欲求不満もなく戦いなさい。第3章30節
ये मे मतमिदं नित्यमनुतिष्टन्ति मानवाः ।
श्रद्धावन्तोऽनसूयन्तो मुच्यन्ते तेऽपि कर्मभिः ॥ ३-३१ ॥
ye me matamidaṃ mityamanutiṣṭhanti mānavāḥ |
śraddhāvanto’nasūyanto mucyante te’pi karmabhiḥ || 3-31 ||
批判的にならず、信頼を持って、私のこの教えを常に追求する人たちはまた、
カルマ・パラ(行いの結果)によって解放されるでしょう。
(彼らは、カルマ・パラの束縛からも解放されるでしょう。モークシャを得るでしょう。)第3章31節
ये त्वेतदभ्यसूयन्तो नानुतिष्ठन्ति मे मतम् ।
सर्वज्ञानविमूढांस्तान् विद्धि नष्टानचेतसः ॥ ३-३२ ॥
ye tvetadabhyasūyanto nānutiṣṭhanti me matam |
sarvajñānavimūḍhāṃstān viddhi naṣṭānacetasaḥ || 3-32 ||
ところが、理由なしに批判し、私の教えに従わない人々は、
全ての領域に勘違いしている人たちであり、
自分自身を失ってしまうほど識別を欠いている人たちだと知りなさい。第3章32節
इन्द्रियस्येन्द्रियस्यार्थे रागद्वेषौ व्यवस्थितौ ।
तयोर्न वशमागच्छेत्तौ ह्यस्य परिपन्थिनौ ॥ ३-३४
indriyasyendriyasyārthe rāgadveṣau vyavasthitau|
tayorna vaśamāgacchettau hyasya paripanthinau || 3-34
それぞれの感覚の対象物に関して、愛着と嫌悪があります。
それら二つの支配下にその人が来ませんように。
なぜなら、その二つはその人の敵ですから。第3章34節
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A.
p154の一番最後に書いてあるように
「私を止めるあなたは、一体何者ですか?・・・」と、16歳の子どもが親に対する例えがありますが、やりたいことを妨げられると怒り出す人は少なくありません。これを大人であっても親子でなく他人に対してもやっているのが、アヴィヴェーキーです。
満たされていない自分を満たすために、安心でない自分を安心させるために、喜びでない自分を喜ばすために、一時的な安心満足や喜びを得るために没頭している人たちを説得する前に怒り出し傷付けられる可能性もあります。
満たされていないと思い込んでいる自分は、本当は満足で喜びの存在なのですよ、一時的な満足を追いかけてもまた束の間の喜びや安心を追い求め続けるのですよと話したところで、馬の耳に念仏、暖簾に腕押しといった状態になります。
また、言語の理解が難しい人が聖典の言葉を聞いて、間違った捉え方を重ねて馬鹿にされたと勘違いし豹変し始め、聖典の言葉を扱う先生を非難して、また好き嫌いで避けて歪んだ考えに連れ去られていく識別のない人もいます。
3-32で言われているように、識別のない人は理由なく批判します。それで教える人もいますので、教わる人の識別が大切ですね。
最後の結論は、成熟してきた人に教えられる物であり、教える人もどのような方法で識別をして成熟してきたのかを教えられなければ人を成熟に導くどころか、好き嫌いで選択することを教え、人を非難することをお手本にしてしまう人々もいます。
アダルマに生きてきた人は、ダルマを教えると怒り出して非難し始める人もいます。
そう言う人たちは、座って話を聞くこともできませんので、無理に話をしても返って感情的になります。
識別のない人に識別がないと言っても怒り出したり、傷付けられたりします。
識別のない人たちは、第2章62、63節で見てきたように、
ध्यायतो विषयान् पुंसः सङ्गस् तेषूपजायते ।
सण्गात् सञ्जायते कामः कामात् क्रोधोऽभिजायते ॥ २-६२ ॥
dhyāyato viṣayān puṃsaḥ saṅgas teṣūpajāyate |
saṅgāt sañjāyate kāmaḥ kāmāt krodho’bhijāyate || 2-62 ||
क्रोधाद् भवति सम्मोहः सम्मोहात् स्मृतिभ्रमः ।
स्मृतिभ्रंशाद् वुद्धिनाशो बुद्धिनाशात् प्रणशति ॥२-६३ ॥
krodhād bhavati sammohaḥ sammohāt smṛtivibhramaḥ |
smṛtibhraṃśād buddhināśo buddhināśāt praṇaśati || 2-63 ||
何かを思う人に、それに関しての執着が生まれます。
執着から欲求が生まれ、欲求から怒りが生まれます。
怒りから妄想が生まれて、妄想から記憶が失われます。
記憶がなくなってしまうので考えは無能になります。
考えが無能である時、その人が破壊されます。 第2章62節、63節
思い通りにならない時、子どもは無邪気に、親にひどいことを平気で言う子もいますが、思春期ならまだしも他人にも平気で言う極めて未熟な人もいます。
妨げることよりも、やらせておいてあげる方が一時的な満足も得られて、お互い祝福ですよね。
少しずつ、ダルマに沿って行動できるように追求させてあげましょう。