「あなたが文章の形として、シャーストラ・聖典を見るとき、あなたがすでに知っていることをもとにして、あなたはそこから何らかの意味を導きます。実際、あなたがすでに知っていることを土台にしてだけ、あなたはどの文章も理解することができます。別の言葉で言えば、あなたはあなたがすでに知っていること以上には理解しません。あなたがシャーストラの理解に至るであろうことは、あなたがやってきた場所からによって、そして、今まさにあなたがいる場所によって決まります。あなたの過去の体験と現在の理解をもとに、文章があなたに明かし得ることの素因があります。ですから、あなたが新しいメッセージのある文章を見たとき、それはあなたに何を与えることができますか?その文章の後にある意図が理解されることはできますか?
コミュニケーションにおいて、文章の意図は重要です。誰かが文章を作るとき、その人は伝えられるための意図された意味を持ちますし、その意味が、あなたが理解しなければならないことです。しかしながら、時々、話された言葉は、話し手が意図した意味を伝えません。意図された意味が、はっきりと伝えられる時ですら、聞き手、または読者がそれを理解するかどうかは誰にもわかりません。これは聞き手が既に知っているようなメッセージではないなら、特にそうです。ところが、もしメッセージがその人が知っていることに似たものであれば、その人にとって理解することは遥かに簡単です。その人が既に持っている知識を使いながら、その人は伝えられていることの理解をさらに先に進めることができます。しかし、もしメッセージが全く異なったものであるなら、つまり、メッセージが今までにその人が持ってきた、その人自身や世界についての結論の全てに反するなら、考えに驚きが起こるどころか、それは、全く馬鹿げたことに聞こえます。」1)
言葉の本質
「どのような話題の教えであろうと、もしその人が話していることを知っているなら、言葉が重みを持ち、それは真実に聞こえます。その言葉が話されるとき、あなたはその言葉を見ます。当然、話していることを知っている人の言葉は、他の人の言葉とは違っています。それでも、言葉を使っての教えは、お手本を示すことによる教えではありません。」2)
これまで、社会の秩序を守るため、人々の安全を守るため、人や社会貢献のために多くを学び生きてきた人にとっては、知っていることばかりですが、改めて何千年も昔から国も時代も超えて、人間の持っている性質というのは同じなのだとつくづく思います。
ヴェーダーンタはどのような人に教えられるかも言われていて、国の秩序を守るために労を費やしてきた人々にまず教えることによって、ダルマが当たり前に理解できている人から最後の結論を理解し、その人たちがまたさらにダルマを教え、最後の結論を正しく教えられるものです。
しかし、国を守るためにダルマを教えられて育ってきた人の中には、ドゥルヨーダナのようにアルジュナに嫉妬し、蹴落として何度も殺そうとして、国も何もかもを奪って追放して、約束を守らない人もいます。
地位や名誉のために誰かを傷つけてでも、自分が人から優位に見られたいと思う人は少なからずいます。
ドゥルヨーダナも、ダルマはわかっているけど、なぜ自分の前に悪をする願望・カーマが居座っていて衝動的に行動してしまう。
それがなぜなのか、どうすれば良いのかがわからない。そのために嫉妬からの行動を続けてしまう。
その行いの結果は、いつしかその人自身に実ります。
幸せになるためには、人から奪うことよりも、人よりも良く見られるために地位や名誉を得ることよりも、まずは自分が与えられるものを与えなさい。与えれば与えるほど、あなたはダルマの法則に従ってイーシュヴァラから与えられます。
小さな自分をなんとかしなくてはいけないと思っている恐れや不安からの行動は、いつしか自分を苦しめる結果となります。
その考えを統括するために、あなた自身とあなたの願望の間に隙間を見つけなさいと教えてくれています。
<引用文献>
1)BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第3章 Swami Dayananda Saraswati (著) Swami Cetananda Saraswati (訳・監修) 2019.09.05一般社団法人パラヴィッデャーケンドラム ヴェーダーンタ勉強会出版 P156
2)BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第3章 Swami Dayananda Saraswati (著) Swami Cetananda Saraswati (訳・監修) 2019.09.05一般社団法人パラヴィッデャーケンドラム ヴェーダーンタ勉強会出版 P134