ヴェーダーンタ勉強会 質疑応答「考えの特殊な機能」
※アンタッカラナシュッディ:内側の道具をきれいにすること(ヨーガの生き方のゴールであり、知識を理解するための道具がきれいになってようやく人生のゴールでありニャーナヨーガのゴールであるモークシャを叶えることができる)
※アートマー:自己
※ラーガ:愛着・執着・好きなど。ドヴェーシャ:嫌悪・嫌い・避けるなど。
※ブルッティ:考えの形、波
※ジーヴァ:個人
Q
P122 「アンタッカラナシュッディが欲しいなら私は何かをしなければなりません。
ラーガ・ドベーシャを満たしたければ私はカルマをしなければならない」と書かれていますが、アンタッカラナシュッディの為のカルマは識別やダルマな選択だと思うのですが、ラーガ・ドベーシャを満たすカルマとは何でしょうか?
私はラーガ・ドベーシャを満たしたい訳ではないのですが、ただ単にそのまま好きな方に好んで行動するという意味ですか??
心は行動できないから心が「私はあまねく存在であり幸せアーナンダ」と解釈して教科書に書いてある「私に全ての行いを放棄させます」の意味が理解しているつもりでした。
でも、嫌だと思う人を受け入れようとするその心はアートマー(アートマーの考え)があるからであって、教科書に書いてある「アートマーは何もしない」の言葉を聞いて私が受け入れようとしていた考えや気持ちはアートマーだと思ってたけど、ジーヴァだったのか・・と思いました。
「私の存在の中で全ての活動が起きる」
と書いてあったので、アートマーの考えや気持ちじゃなくて、アートマーに気づいてるからこそ識別ができるのでしょうか??
A.
アンタッカラナシュッディを得るためには、カルマヨーガとして、イーシュヴァラから与えられたどのような状況も逃げることなく向き合う努力をして、自分のラーガ・ドヴェーシャを識別していくことが大切です。
ラーガ・ドヴェーシャを満たしたいなら、好きなことをして自分の感覚器官を満たす行い、カルマをすれば良いです。
アートマーは心ではありません。
心も体も対象物です。
アートマーだけでは、見ることも知ることも認識することも体験することもできません。
アートマーを理解するためには、理解するための道具である心を綺麗にしていくこと、心が知性です。
理解することも心でしている行いで、考えレベルの行い・マーナサカルマです。
アートマーは理解されるものであって、主体であり捉えられないものです。
アートマーであるあなたの中で、好きも嫌いも、怒りも悲しみも、過去も未来も、全てが移り変わっていきます。
アートマーが移りかわらないから、移り変わるものを捉えているのです。
アートマーとカーラナ宇宙が一つになって全てが展開しています。
ブランマンとマーヤー、サッテャムとミッテャー、プルシャとプラクリティというように、どちらかだけでは何も展開できません。
ここの部分を一生涯かけて理解していくので、今分からなくても当たり前ですから、何度でも質問して頂いて言葉にしていきながら、その時その時で理解が深まっていくものです。
Q.
アートマーは心ではないのですね・・
心もジーヴァであるんですね。心で理解しているんですね。
アートマーを心とか魂だと解釈していた私にはどうアートマーを理解すれば良いか分からなくなってしまいました。
ラーガ・ドベーシャを識別し、考えや心を綺麗にして、そして識別や考えなくても自然にダルマな選択や行動、見返りを求めずただ相手の幸せ為に自然に行える行為ができる様になったらアートマーを理解したという事でしょうか??
違っていたらすいません。
私、マーヤーの意味も良く理解できていないのです。
A.
たくさん質問していくことは積極的に理解しようとしているので、素晴らしい行動です。
何度も言いますが、最初から理解できる人はいません。
頭の良い人は自分だけの力で知ったかぶりせずに、今の理解をアウトプットして分かる人に正解を求めて、間違っていたらまた理解できるように学ぶことを繰り返しています。
コンプレックスが強いと、人からのアドバイスを受けると馬鹿にされた、非難された、自分はダメだ、自己嫌悪に苛まれたり、自分はできるのに相手が分からないんだ!
となって話を聞くことをやめるので成長できません。
恥ずかしい、自分はダメだなどと上乗せした見方をすることよりも、全てが潜在的に隠されて潜んでいる可能性と力を信じて、成長していけるのだと思って行動していくことの方が確実に理解に繋がっていきます。
魂とは、プラーナ・生理機能と感覚器官、行動器官、考えの複合体のことであり、意識ではありません。
マーヤーは、全ての可能性と力であり、隠す力、現す力です。
人それぞれの行いの結果が、プンニャとパーパとして種の形で蓄えられています。
アートマーであるブランマン、あなたがマーヤーを使ってこの宇宙を展開しているイーシュヴァラです。
「BG Ch15 v15
『そして、私は全ての者の中心部に入ります。私から、記憶や知識や忘却が起こります。私のみが、全てのヴェーダによって知られる者であり、私のみがヴェーダーンタの (ヴェーダーンタの教えの伝統の)の作者であり、ヴェーダを知る人です。』
全ての者の心の中にある自分自身としてそれがあるので、ありとあらゆるやり取りの関係が起こるという基盤であり、そしてそこにある全てである基礎が、ヤダーディッテャガタム テージャハにはじまる3つの詩で語られました。私が太陽の中にある輝きであり、月の中にある光であり、火の中にあるテージャスであると神が言います。私は、私の力によって大地を支えていて、私は、育てるための栄養分となって、植物界全体を満たしています。ですから、私は食べ物になります。さらに私は、プラーナとアパーナなどを授かる消化の火でもあります、食べ 物がバガヴァーンですから、食べ物から生まれる体や外側の世界もまたバガヴァーンです。何が残ってい ますか? 何もありません。全てがバガヴァーンです。
この詩で、彼は、『サルヴァッスャ チャ アハム フルディ サンニヴィシュタハ、私は、全ての人の 中心に入りました』と言います。彼は、全ての生き物たちの考えの中で、クシェーットラ・ッニャ、まさ に、アートマーであると彼はすでに言いました。彼は、アートマーとして、サンニヴィシュタハ、入っ た、つまり得た人です。タイッティリョーパニシャドは『タット スルシュットヴァー タデーヴァ ア ヌップラーヴィシャト、彼が作り出して、彼はその中に入りました』と言います。彼は、アートマーとし て、まさに彼の創造であるブッディの中に入ります。それがここで、『アハム サンニヴィシュタハ』に よって意味されている事です。『そして、私は入って、アートマーとしてそこに留まります』と神が言い ます。ですから、アートマーがイーシュワラです。ジーヴァとイーシュワラの間には少しも距離がありま せん。バガヴァーンが、『アハム サンニヴィシュタハ、私が入りました』と言う時、その『私』の意味は意識、つまり、チャイタッニャに他なりません。ただ一つのチャイタッニャ、アートマーがあります。 そして、アートマーとして彼は入りました。二番目のアートマーはあり得ません。そのためのプラマーナ はありません。シュルティから、また、ユックティ、つまり、論理的に考える事から、二つ目の意識はあり得ない事を私たちは理解します。ひとつの空間が様々なウパーディによって条件付けされて制限されているのと同じように、知る人‐知られるもの‐知るための道具によって、まるで制限を受けている意識はひとつです。それは、パラマートマーに他なりません。考えによって制限され、アートマーの上に重ね合 わせて上乗せされて見られる属性、つまり、ヴィシェーシャのために、それがプラマーター、知る人になります。しかし、それ独自の視点からその意識は、シュッダ、純粋、エーカハ、唯一、限りの無い意識で す。ひとつの与えられた考えに関して言うなら、それは知る人であり、それ(パラマートマー)自体に関して言うなら、限りがありません。私が、『私、アハム』と言う時、それは、一般的に知る人、つまり、 プラマーターを意味します。私がブランマンであるというウパデーシャ、つまり、教えは、その知る人のためだけにあります。その知る人の中に得られる意識は、まさに唯一(ただ一つの)の意識、チャイタッニャであり、それはイーシュワラなのです。
この意識なしには、知る人はまったくありませんので、知識はありません。こうして、彼は、『知識は私からあります。マッタハ ジニャーナム』と言います。アートマーである私からのみ知識が可能です。チャイタッニャ無しに知識はありません。さらに、何らかの対象物を知るという特有の可能性は、どれもが 全てマーヤーの現れですから、知るための機能はイーシュワラからのみあります。私たちは、二つの方法 でこれを見る事ができます。一つ目は、この知識は、「私」から、チャイタッニャ・アートマーからのみ可能であると意味を取る事ができます。」
これを一生涯、来世も、再来世も、天国でも勉強し続けて理解になるのです。
アートマーだけでは何も見る、聞く、認識する、触れる、匂う、味わうという体験をすることができません。
感覚器官から捉えた物事を考えに運んでいます。
それによって心=ブッディ=知性を使って理解しているのです。
そこには、過去の記憶によって間違いがたくさん含まれているので、識別をしていきます。
そうして、知るための道具、アンタッカラナ=考え=ブッディ、心をきれいにすることがシュッディ、達成されることなのです。
耳では音を聞くことをしていて、目では色や形を捉えているように、音に色や形を目で見ることはできず、その役割を果たす機能の領域が違いますよね。
それと同じように、アートマーは存在であり全ての基盤で、ありとあらゆるものにあまねく満ち満ちている意識であるブランマンですが、心は認識・気づきが起こり識別・浄化することができる機能です。
ここが間違いや汚れを落としてきれいになれば、元々の純粋な意識である自分自身、イーシュヴァラがありのままにあるがままにこの肉体や考えを通して現れます。