バガヴァッドギーター第2章47節
र्मण्येवाधिकारस्ते मा फलेषु कदाचन ।
मा कर्मफलहेतुर्भूर्मा ते सङ्गोऽस्त्वकर्मणि ॥२.४७॥
karmaṇyevādhikāraste mā puleṣu kadācana |
mā karmaphalaheturbhūr mā te saṇgostvakarmaṇi ||
あなたの選択は行いにだけあります。決して行いの結果にはありません。
行いの結果の作れる人だと思いませんように。あなたの執着を、行いではないものに置かないように。
Q .
前回のクラスで「自分に属してはいない事を背負い込んで望む物は作り出せないから悩みます。」という言葉があり、とても共感できると思いました。
皆、仕事でも子育てでも1人では出来ない事を全て自分でやろうと抱え込むことがあると思います。
私の場合は子育てでした。
旦那は、俺が仕事しなかったらどうやって食べて行くの?と子供の事は何もしようとしませんでした。
しようとしてたのかもしれませんが、協力的でない旦那に怒り奮闘してたので、実際1人でやろうとすると体力的にも精神的にも辛くなってしまい、私は1人なんだって悲しくなった時を思い出します。
その言葉の後に、先生が「客観的に物事を見て意気消沈しないように」と言っていましたが、自分に背負い込む物が多すぎる場合どうゆう風に客観的に見ればいいのでしょうか。
出産したばかりの時は旦那は仕事で疲れているからしょうがないと思っていたのですが、あまりに心ない言葉を言われるので本当に許せなかったです。
A.
本当に子育てはわからない事を一人で悩んで、できない事を自分のせいにして責めて、自身を失い、思い通りにならないことに怒り、手助けしてくれないことにまた腹を立て、どうして私ばっかり、なんで何もしてくれないの、自分ばっかり大変な思いをして。。。と思うことの連続ですよね。
それが一般的ですし、今までの見え方、生き方です。
それをヨーガに変えるためには、どうすれば良いのか。それが大事なところです。
ああして欲しい、こうして欲しい、これしてくれない、あれしてくれない、ないないないない。。。
その見え方から自由になるためには、識別を常に忘れずにしていくことです。
期待や願望が湧いて執着が起こり、思い通りにならないことから怒りになります。
怒りが湧いた時には、また私はしてくれ「ない」ばかり見ているな、と気付いて、それが執着になってるな、と自分の考えの癖を見ることです。
夫婦は、役割が違うので、外で仕事をしてくれていることによって生活が成り立っていることに感謝を忘れずに言葉にしていきましょう。
そして、家事を頑張っていることは旦那さんには全く気づいてもらえないことに、自分の存在価値を認めてもらえないと感じるかもしれませんが、それは自分のことを認めていないが故に起こる感情です。
すでに幸せで満足な自分自身が、愛情深く子育ても家事も十分にこなしている事は素晴らしいことです。それができている自分を尊く思うことが大切です。
イクメンパパに憧れたりすると思いますが、他者を羨ましがっても、これまでのカルマが違うので仕方ありません。
これからイーシュヴァラから与えられる結果にもっと感謝ができるように、たくさんのプンニャを貯めるようにイーシュヴァラに捧げられるような考え、言葉、行動を選択していくことです。
そこにまた、あれしてくれないという願望と執着が現れてくるので、それを識別することがヨーガの生き方です。
すでに子供がいてくれていること、生活ができていること、与えられている事に目を向けて、一つずつ感謝を持てるようにものの見え方を変えていくことです。
それができるようになると、少しずつ旦那さんも子供も、周りの人も変わっていきます。
周りの人や状況を変えようとするから苦しくなるので、自分の執着を識別して自分を正しくあるがままに見えるように変えていくことが大事なのです。
幸せなあなたが周りにも幸せを与えられるのです。
欲しい欲しい、くれない、足りない、もっと、そういう貪欲な考えが起こるのは、間違ったものの見方を重ねて依存的になっているからです。
その祈りがまたイーシュヴァラによって望み通りに叶えられていきますよ。
もらう側になるのではなく与える側になることを忘れずに、優しさ思いやりを与える行いの選択をする努力も必要です。
自分の思い通りにならない、理想通りでないことに対して、怒りのままに行動し、心ない言葉を言う人ほど幼稚で未熟なのです。
旦那さんにも、過去世からずっと、親やパートナーなどに、ああしてくれない、こうしてくれない、ああして欲しかった、こうして欲しかったと言う願望と執着があって、無知故に満たされていない自分観を外側の誰かに満たして欲しいと言う思いがあって、それが思い通りにならないときに、わがままで幼稚な子供が駄々をこねるのと同じように、ひどい事を平気で言ってしまうのです。
未熟であればあるほど、満たして欲しい相手に満たしてもらえないときに、暴言や暴力など歪んだ考えが言葉、行動になっていきます。
それを理解して、そう言うときにもイーシュヴァラに祈り、ジャパを唱え、イーシュヴァラから離れないようにする事です。
イーシュヴァラが見えない存在でわかりにくいときには、いつも祈っている形ある大事なものに愚痴でもなんでも吐き出す事です。その場で握り締めて怒りを堪えられるように、身に付けるものでも良いです。
日記や手紙に殴り書きや、壊しても良いものに怒りをぶつけて、少し考えが落ち着いてから、本質は誰もが満足で幸せ、安心だと言う事を理解するために日々の出来事が与えられていますから、そう言う客観的なものの見方で、ダルマに沿って冷静に、事情を説明してこうしてくれると助かる、これを手伝ってくれるとありがたい、と伝え、少しでもやってくれたことに感謝をし言葉にしていくことです。
相手も自分の存在価値を認めてほしいのです。
相手を認めて言葉にしていくことも、イーシュヴァラに捧げる行いですし、自分にしている行いになり、自分を認められるようになっていきます。
簡単なことではありません。時間はかかります。
辛い時はいつでもお話聞けますから、また自分の本質に戻り、また連れ去られ、の繰り返して段々と分かってきます。
Q.
「時間がない」といつも焦ったりイライラしてしまいます。
アートマーは時間に囚われない私ですよね?
どうしたら時間がないという考えから解放されますか?
A.
焦っても穏やかに落ち着いていても、過ぎ去る時間は同じです。違うのは個人の感覚として、喜びや集中や楽しくてあっという間に感じるか、苦痛や集中できずに長いと感じるかの違いがあります。
物事の優先順位を考えるためにも、忙しいことはありがたいことですね。余計な思考が削ぎ落とされていきます。
時間も何もかもがすでに与えられていることに目を向けて、ないないと思う癖を見て、あるのにないと思っているだけだと気付くことですね。
他の人を羨む気持ちもそうですが、個人の私にないものばかりを人に見ているからです。
その羨んでいる相手も、自分自身の中にあるものです。
個々それぞれの特性やあるものが違うように見えるから、協力し合い助け合い、分かち合うことができるのです。
イーシュヴァラはいつでも丁度良いものを与えてくれています。
時間も物もお金も人も、何もかもが既に与えられていることに目を向けて感謝を忘れずに祈れると、今あるもの全てに満足できるようになりますよ。
「足るを知る」サントーシャ
アートマーは時間空間を超えた存在意識ですが、個人の私はその一部として、全体を支えている一員として存在を与えられています。イーシュヴァラは、全ての人のカルマを繋いで結果を実らせてくれ、実っている、この宇宙全てを支えている存在なのですから、見えないものに祈れるように、目に見えている物は見えないところから現れては消えていくものであり、その限られた時間も物理的なものもありがたく十分であることと受け取りましょう。
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バガヴァッドギーター第3章9節
यज्ञार्थात्कर्मणोऽन्यत्र लोकोऽयं कर्मबन्धनः ।
तदर्थं कर्म कौन्तेय मुक्तसङ्गः समाचर ॥३.९॥
yajñārthātkarmaṇo’nyatra loko’yaṃ karmabandhanaḥ |
tadarthaṃ karma kaunteya muktasaṅgaḥ samācara ||
ヤッニャ(捧げる祈り)目的の行いから外れて(イーシュヴァラに捧げる行いから外れて)、その人はカルマによって束縛されます。
カウンテーヤ(クンティの息子よ)、それ故、執着から離れて、その目的で行いをしなさい。
「イーシュヴァラを常に考慮するなら、全てのカルマはヨーガで、イーシュヴァラの為になされた儀式、信仰、祈り、特別なカルマ、どの様なカルマもヤッニャです。
子育てをする事もヤッニャで、イーシュヴァラに間接的に身を捧げる一例です。この創造宇宙の中に個人は存在し、子供は個人の私の保護のもとにいます。子供はプラサーダとして私に与えられたものであり、私によって育てられます。これは正しい態度、考え方であり、カルマ・ヨーガとなります。イーシュヴァラが理解され、それに含まれる秩序はイーシュヴァラ。このように物事を見ることは、ありふれたことではありません。このような理解こそが、実はバクティが意味する事です。
チャンティングは、バクティですが、バクティは単にチャンティングをすることではありません。それはイーシュヴァラとその秩序の理解です。この理解があなたを繊細にし、あなたの人生に意味を与えます。イーシュヴァラを理解することは、目が出くわす以上のもの、つまり目が見るもの以上の物が見える事です。
バクティは全てをイーシュヴァラと見なして、背後にある物、前にある物、秩序の中にある秩序を理解する事なのです。これがまた、まさにカルマ・ヨーガの意味なのです。
どのようなカルマにおいても、直接的かまたは間接的にイーシュヴァラと関係を持ちます。カルマは、役割を演じることも含まれてます。何かがあなたに期待されています。あなたは、この状況に置かれているので、この行いはあなたによってなされなければなりません。だからあなたは、それをします。これが、イーシュヴァラのカルマがどのように働くかなのです。そうでなければこの瞬間に、この場所にどうしてあなたはいるのでしょうか?どうして他の場所ではないのでしょうか?ここに意味があります。あなたがすべきことがあるから、この場所、このときにあなたはいるのです。これがカルマの法則なのです。
そこには意味があり、支離滅裂な物ではないとわかるでしょう。すべてに、原因と結果があるように見えます。創造宇宙には無秩序はありません。
すべき事を行うことによって、神を祈ることは、確かに目に見える以上のものを理解する必要があります。行いをするその手の後ろにあるもの、それは単に欲望ではなく、欲望のさらに後ろにあるものを理解する必要があります。欲望そのものがイーシュヴァラから生まれたものである事を理解すべきです。こうした理解が、バクティです。このようにして行いの担い手は、神を間接的に祈るのです。
このように、ヤッニャには、直接的なものと間接的なものの、2つの側面があります。あなたが、カルマ、つまりヤッニャを祈りという形で行うとき、イーシュヴァラとあなたの間には直接的な関係があります。あなたは、イーシュヴァラをデーヴァターの形で呼び起こすか、神として直接呼び起こすかどちらかです。どちらにしても、そこにはバクタ、つまり献身者がいて、カルマを行う人、つまりヤッニャマーナであるあなたに返ってきます。」
引用文献:BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSE バガヴァッドギーター第3章 Swami Dayananda Saraswati 著 Swami Cetanananda Sarasvati 訳 P65