「時間とは〜科学とヴェーダーンタ〜」
ヴェーダーンタ勉強会九十九里
・あのプールナム(全体)からこのプールナム(全体)を引いたり足したりすることはできない。
物理学でエネルギー保存の法則があるように、姿形が変わったとしても全体での総量は減ったり増えたりしない。1トンの金の塊が腕輪や指輪やネックレスに形を変えたとしても、1トンの金は金としてそれぞれに満ちている。1トンという数字は例えであって、プールナム、全体、限りのないものである。個人の肉体が朽ち果てれば、主に炭素として地球上では循環し、肉体から去ったプラーナもそこにある。そうして移り変わるものを捉えている移り変わらないただ一つの意識が自分自身である。
<感想>
あのプールナムからこのプールナムを、という言葉は本当に美しいですね。物質やエネルギーが様々な形に移り変りつつも、全体は変わらないこと、物理の法則を生態系の中で見ることを学んだ最初は、確か高校生の時でした。図録の隅の方に少し載っている程度でしたが、とても感動したのを覚えています。それ以前は断片的な記憶ですが、小学生の時にはリサイクルのような環境問題が取り上げられ、身の回りのモノが循環していることを知りました。一つ一つの学びがこうして今につながっていることに、改めて感謝の気持ちが湧きました。
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回答
よく、学校に不満を抱く人がいて、何も教えてくれないという人もいますが、小さな範囲で断片的にいろいろな角度から教えてもらったことを、将来的にも勉強し続け経験することによって、それらが一つに繋がっていくわけですから、本当に教育は大切なことですし、そこからヴェーダーンタを勉強すれば、学んできた知識を集めて統合し、現れている世界と何も矛盾がないことに気がつける知性を養えているのですから、本当に感謝ばかりですね。
量子論でも、物質は姿形を変えて現れて消えることが証明されていますね。しかし、現れることのない考えを超えた無限の存在は明かすことはできませんし、相対的な無限を表そうとしても有限のものを標本にしていますから、曖昧さをカバーするためにも、現れたものの確率を統計学的処理で算出して結論づける以外にないところもありますよね。
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生徒
例えば時間とは何かの研究は決着がついていないようなのですが、時間は主体と客体の関係性の中で生じているということが、Craig Callenderさんの特集で書かれてあり、興味深かったです。
”わたしたちが「時間は流れている」と思い込みがちなのは、自分たち自身と、自分たちとこの世界とのつながりを、一枚の絵として見ることを忘れているせいだ。
メルロ=ポンティ(哲学者)の議論は日常の主観的な時間に関するものだ。科学における客観的な時間も、こうした関係性の中で生じるのだと考える人は、つい最近までいなかった。
時間は存在する、かもしれない。ただし、この世界を無数の部分に分割し、何がそれらを結びつけているのかを外から見るときに限ってだ。こうした見方に立つならば、物理的な時間というのは、「私たちはほかのすべてから切り離されている」と私たち自身が考えているために生じるのだ。”(2010年の日経サイエンス「時間とは」)
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回答
物理学での時間については、次元によって速度が違うなど言われていますよね。
David Merminという物理学者が、私の今について論じています。https://arxiv.org/pdf/1312.7825.pdf
ヴェーダーンタで“今“とは、主体である自分自身のことですから、限りのない永遠の存在であり、それをベースにして“時間“は自分から現れて自分に消えていく対象物です。
オントロジー学者は、量子論の功績を讃えた上で、主体である意識の視点が抜けていると指摘していますが、
https://www.realize-corp.jp/glossary/ontology
David Merminは物理学で“今“を明かすことはできないもので、明かす必要もないので問題ではないことも述べています。
科学者の多くは何らかの形で真実を理解している人も多いと思います。
実際に同じ時間、同じ場所で同じことをして過ごす人が同時にいて、それを早いと感じる人と遅いと感じる人がいて、楽しい時間はあっという間に感じたり、逆に集中力が増したときには時間的速さは1秒であっても、ものすごくスローモーションになることもありますよね。
結局のところ、時間は自分がどのように捉えるかですが、それも時間概念という対象物として見ているので、主体である自分自身は時間にさらされることのない存在で、明かせるものは全て対象物で、それを明かしている主体が今この瞬間であるということがわかります。
Kathopaniṣadの中で時間についてこのように述べられています。
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引用:Kathopaniṣad Talk by swami Parāmarthananda
「Lord Yama brings the idea that Ātmā is sṛṣṭi-sthiti-laya-kāraṇam – the principle from which the world arises, remains established and ultimately resolves into. Lord Yama focuses on Ātmā, as the laya-kāraṇam which swallows the whole creation at the time of pralayam. P156
He also wants to show that time is an integral part of creation. In traditional Physics, we were taught that time and space are eternal and separate from creation and that the creation appears and disappears in time and space. Only in the modern Physics after the Theory of Relativity, it is determined that time and space are not separate from creation.
Time is a property of creation. When creation is absent, there is no concept of time. One of the corollaries whose meaning we will study in Māṇḍukya Upaniṣad: since we look upon time as an integral part of creation, origination of creation is the origination of time. Therefore, one can never logically say when the creation came into being; it is the same as saying when time came into being. To say this, time should have existed before time came into being – which is absurd. Therefore, the universe is anirvacanīyam (logically inexplicable). Similarly, one cannot logically say where space exists or how causality came into being.
In summary, Lord Yama says that creation along with time arose from Ātmā and are also swallowed together by Ātmā. At the time of pralayam, the world is swallowed as food (odanaḥ) by Ātmā. Creation is like the main dish and time (and space) is like a side dish. When we say Ātmā swallows time and space, we imply that Ātmā is beyond time and space. One should never wonder where Ātmā is or when Ātmā came into being. Space and time are within Ātmā. Ātmā is deśa-kāla-sṛṣṭi-sthiti-laya-kāraṇam.
In this verse, he calls the brāhmaṇas and the kṣatriyas as the world and so, they are the food for Ātmā. This is because brāhmaṇas and kṣatriyas are the protectors of dharma. The brāhmaṇas protect dharma by living and teaching the dhārmic lifestyle. Kṣatriyasprovide the infrastructure for dhārmic life by maintaining law and order. They keep adharma in check by destroying the adhārmic people. In summary, dharma is protected by the brāhmaṇas by teaching and the kṣatriyas by punishing. Lord Yama also refers to death as the side dish (sauce) – death is kālaḥ, the time principle. P96-97
One does not know when the next set of karmaphalams will fructify- More importantly, when this body drops, the time concept will change – it is not possible to measure the time of another birth in terms of this physical body. The parallel drawn is: the dream time is totally different from the waker’s time. 」P176
訳してみると、以下のようになります。
〜ヤマ(死神)は、アートマーがsṛṣṭi-sthiti-laya-kāraṇam – 世界が発生し、維持し、最終的に解消される原理であるという考えを示しています。ヤマは、プララヤム(宇宙の眠り)の時に創造物全体を飲み込むラヤカーラナム(最終的に解消される原因)としてのアートマーに焦点を合わせています。
彼はまた、時間が創造に不可欠な構成要素であることを示したいと考えています。伝統的な物理学では、時間と空間は永遠であり、被造物とは別であると教えられ、被造物は時間と空間の中に現れては消えると教えられてきました。相対性理論以降の現代物理学においてのみ、時間と空間は被造物から切り離されていないと判断されるのです。時間は創造の性質を持ちます。創造がなければ、時間という概念もありません。Māṇḍukya Upaniṣadで学ぶことになるこの言葉の意味は、『時間を創造の不可欠な一部と見なすので、創造の起源は時間の起源である』というものです。したがって、創造がいつ生じたかを論理的に言うことはできず、それは時間がいつ生じたかを言うのと同じです。これを言うためには、時間が生まれる前に時間が存在していなければならないということであり、これは不合理なことです。したがって、宇宙はanirvacanīyam・論理的に説明できないものです。同様に、空間がどこに存在するか、因果関係がどのように発生したかを論理的に言うことはできません。要約すると、ヤマは、創造は時間とともにĀtmāから生じ、またĀtmāによって一緒に飲み込まれると言っています。pralayam、宇宙が眠る時、世界は食べ物・odanaḥとしてĀtmāに飲み込まれます。創造は主菜のようなもので、時間(と空間)は副菜のようなものです。Ātmāが時間と空間を飲み込むというのは、Ātmāが時間と空間を超えた存在であることを意味しています。Ātmāはどこにあるのか、Ātmāはいつ生まれたのか、決して考えてはいけません。空間と時間はĀtmāの中にあります。Ātmāは、deśa-kāla-sṛṣṭi-sthiti-laya-kāraṇam (時間と空間が発生し、維持し、最終的に解消される原因)です。この節では、brāhmaṇa(聖職者)とkṣatriya(国の秩序を守る人々)を世界と呼び、彼らはĀtmāの食物であると述べています。これは、brāhmaṇaとkṣatriyaがダルマの保護者であるためです。brāhmaṇaは、ダルマの生活様式を生き教えることによってダルマを守ります。kṣatriyaは、法と秩序を維持することによって、ダルマの生活の基盤を提供します。アダルマを抑制するために、アダルマを破壊します。つまり、ダルマはbrāhmaṇaによって教えられ、kṣatriyaによって罰せられることによって守られます。ヤマはまた、死をおかず(ソース)と言っています。死はkālaḥ(時間原理)です。
人は、次のカルマパラム・行いの結果がいつ実を結ぶか分かりませんが、さらに重要なことは、この肉体が滅びると時間の概念が変わることです。この肉体の観点から、別の出生の時間を測定することは不可能ですが、同じように夢の中の時間と起きている時の時間とはまったく違うということです。〜
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回答
私が科学の話を取り入れるのは、現れた物事にも法則が必ずあり、その法則こそがイーシュヴァラですから、間違った解釈にならないよう現実とのギャップが生まれないように客観的に物事を見る習慣をつけて全てを一つに見ていくためと、科学を徹底的に非難する人たちや識別なく社会全体を歪んで捉えて、物事がまともに見えず自分と世界が分断している人が教えることによって、さらに識別のない人たちが巻き込まれて集団化しダルマを圧倒してしまうこと、そのような人たちがいることでヴェーダーンタの品位を格下げしてしまい、優秀な人たちには嫌厭される事実があるので、科学とヴェーダーンタは矛盾したものではなく、その両者をつなげて物事を正しく捉え考えられるように、科学とのつながりと違いを明確にしてイーシュヴァラを完全な理解にし、その綺麗な考えの上に真実の知識を得られれば、簡単にモークシャは叶えられると考えているからです。
物理学者がヴェーダーンタを学ぶと大喜びすることもダヤーナンダジは言っていましたよね。
物理だけではなく生態学や生物学でも同じです。
正しく物事を見て社会に還元してきた貢献者たちが今まで一生懸命探求してきた努力の上に、真実を理解してほしいということなのです。事実、そのような人たちは謙虚で穏やかで優秀な方が多く、自分がやっているのではなく法則を見ているということを理解し、知らずとも自分に現れた栄光をイーシュヴァラであると見ている喜びがあります。
ですので、ヴェーダーンタの知識を理解した上で物理学など科学的なことを見ていくことが、より楽しくこの世界を理解し明かしていくことができると思います。